本書は面白かったのですぐ読めた。全体の流れをメモしてみると、序章では近代スピリチュアリズムの始まりとその概要について説明されている。「同時的に起こる諸事件」として「一八四八年の共産党宣言」とハイズヴィル事件、「一九一七年のロシア革命」と「ファティマのマリア出現」(p.13)などについての考察や、死後生存の有無の議論と高等スピリチュアリズムの思想性の議論の違いを、シェイクスピアは実在したか否かの議論とシェイクスピア作品の中身の議論の違いになぞらえている箇所は個人的にはツボだった。
1章では「比較宗教学の祖マックス・ミュラーの著作」とモーゼスの「霊訓」はその主張のみならず文章表現さえも類似性が認められることを指摘し、その理由を探求している。本章で例に挙げられている部分を見る限りにおいては確かに著者の言う通り両者の考えは似ている。ただ両者に類似性が認められることについて、著者の考えはややスピリチュアリズム的に過ぎるように感じられた。
2章ではスピリチュアリズムと心霊研究の間における争点…霊言を語っているのは霊なのか、それとも「媒介者」の一部である潜在意識、第二人格などなのかという問題や、守護霊という存在について語られている。
3章では臨死体験がテーマになっているが、キュブラー=ロス、ムーディに対する批判が紹介されているところは面白い。その理屈は、治療現場では臨死体験直後の患者が、怖ろしい体験をしたと証言することがある、しかし好ましくない記憶は時間が経つことで抑圧されることがある、キュブラー=ロスらは治療現場にはおらず、したがって臨死体験直後ではなく、一定の時間が経ってから証言を集めることになっている云々ということらしい。これが本当なら、二人が語る以上に怖ろしい臨死体験は多いということになるだろう。
4章ではホイットンやワイスの前世療法、ケイシ―のリーディングやカルマ説、シルバー・バーチ、マイヤーズ(霊)、カルデックの輪廻説などが紹介されている。ブラヴァツキの死後、その名をかたる霊が生前の輪廻に関する自説を撤回したエピソードにも触れられている。
終章ではスピリチュアリズムと神智学オカルティズムとの対立と議論に触れつつ、両者の差異について説明されており、ここで著者は「説明を透明にするため、あらかじめ筆者の位置を明らかにしておくと、私は「高等」と呼ばれるスピリチュアリズムの思想文体に親近感をもつ一方、オカルティズム(神智学を含む)のそれには所々に違和感を覚える」(p.195)云々と信仰告白? をしている。本書の前半部分からすでに著者の文章にはそのような雰囲気は感じられてはいたが、それを明言するというのは生真面目な方なのだろう。こういう著者の文章であれば、他の文章もぜひ読みたいと思う。