ブックマークしておいたツイートを見返していたら、次のツイートがあった。
 自分で言うのも何だけども、自分にはここで指摘されているようなところは確かにあるように思う。ただ自分の場合は、怒らないというより、怒れないという色合いが濃い。
 たとえば、「義人無し、一人だに無し」という言葉が常に頭にあるせいか、正しくないことをする人がいたとしても、「まあ人なんてそんなもんだよな」と納得してしまうし、人は生まれつきの性質と環境によって支配されていると思えば、「この人はそういう風にしか生きられないのだろうから文句を言ったところで仕方ない。出来ないことを求めたって無理だし、かわいそうだ」とこれまた納得してしまう。
 ドーキンスの「利己的な遺伝子」を読んで以降、人が利己的であることに驚かなくなったというのもある。ひどく利己的な人がいたとしても、それはその人の心掛けの問題というより、そういう生存戦略によって生き延びてきたし、生き延びようとしてる遺伝子の故なんだろうし、このことはその人にはどうにも変えようがないんだろうと同情しておしまいとなる。
 そういえば釈尊も人は利己的なものだと喝破していたのだった。
どの方向に心を心で捜し求めてみても、自分よりさらに愛(いと)しいものはどこにも見いだされない。そのように、他人にとってもそれぞれの自己は愛しい。だから、(自分を愛するために)他人を傷つけてはならない。
 ただし釈尊は人は利己的な生物だと認めつつ、それを自分だけがよければ他はどうでもいいという方向ではなく、利他の方向に導いているのはすごい。いわば利他的利己のすすめになっている。この辺りは進化心理学関連の本に書いてあったりすることと同じであろうし、2500年前にその域に到達していた釈尊はすごい。
 自分は上に書いた理由などから、人の利己心に腹を立てることはあまりなくなり、それを現実として受け入れることはできるようになってきてはいるものの、釈迦が説いたようにそれを利他につなげることは残念ながらまだまだできていない。この辺りのことをもうちょっとできるようになって、怒れない人を脱却し、真に優しい人になりたいものである。