*自己中心的な人
ツイッター上で、自己中について議論になっていた。
https://twitter.com/hitandrunflame/status/1297663796488544256
信者側の主張は、親を悪く言うのも、教団(仏神)を悪く言うのも、自己中だからだということらしいが、これはいくらなんでも極論だろう。
どうしてそんな風に考えてしまうのだろう? やはり教祖の影響かな。
*教祖の法話
*教祖の法話
最近のHSでは、「自己中心的な生き方はなぜ問題なのか」という法話があったらしく、公式ページで公開している。
ためしに、法話の冒頭部を読んでみると、こうなっている。
「自己中心的」な人の特徴とは~法話「自己中心的な生き方はなぜ問題なのか」(1)
これによれば、教祖の目には、世の中には、自分は得するために生まれて来たと考えている人が多く、手っ取り早く結果を欲しがる人ばかりに見えているらしい。
また、「自分をほめ上げ、他の人を批判する人」のことを、まるで他人事のように語っていることからすると、自分がそれに該当するとは、少しも思っていないらしい。
「損得勘定ではなく、真理のために生きた偉人たちの心」な人の特徴とは~法話「自己中心的な生き方はなぜ問題なのか」(2)
こちらでは、イエス、ソクラテス、吉田松陰、釈尊などの偉人は、世の中で理解されないかのように言っている。釈尊の生き方について、「余人の想像を絶するもの」であり、「普通は、この世的に見て、より有利なことを選ぶもの」だとのことである。
また地獄霊は人をほめないし、悪口ばかり言うが、天上界の住人は「悪口を言い続け」たりはしないとしている。
*事実関係
*事実関係
ところで、HSを取り巻く現実は次のようなものだ。
- 大川隆法は、自分は釈尊の生まれ変わりだと主張している。
- しかし選挙では、あえなく落選。
- 幸福実現党は国政選挙では一度も勝てず、得票数は減少傾向にある。
- 神を信じない人が多いゆえに、天災地変という形で神罰が下されると繰り返している。
ついでに、推測も加えると、こうなる。
- 幸福の科学の信者数は、全然、増えていないらしい。
- 神を信じない人が多いゆえに神罰がくだるとは、大川隆法を神だと信じない人が多いので神罰がくだるということらしい。
大体こんなところだ。
*法話の背景
*法話の背景
これらのことを念頭におきつつ、法話を読むと、その背後には次のような思いがあるらしいことがわかる。「世の中には、自己中心的な人が多い。だから、イエス、ソクラテス、吉田松陰の偉さは分からないし、釈尊の生まれ変わりである私が、世のため人のために尽くしているのも理解されないのだ」「私は自分褒めはしないし、他人の悪口も言わない。人を利用するために、『あなたの過去世はすばらしい。あなたは高い霊格を持っている』等とおべんちゃらは言わない。私は自画自賛はせず、他人を妬まず、恨まず、損得勘定はせず人のために尽くし、嘘はつけない性分だ」
信者はどうかといえば、この法話を読んで、次のような思いを抱く人は少なくなさそうだ。「世の中には、自己中心的な人が多い。でも自分はちがう。だからイエス、ソクラテス、吉田松陰の偉さが分かる。釈尊の生まれ変わりである大川隆法総裁先生の偉さも分かる」「私も総裁先生と同じく、自分褒めはしないし、他人を誹謗中傷することもしない。嘘も言わない」「仏陀であり、地球神エルカンターレでもある総裁先生の弟子となり、その教えを聞くことができて幸福だ。自己中心的な人は、自己中心であるが故に、この幸福は少しも分からないのだろうが、自分はよく分かる」
おそらく、信者が、批判者に対して自己中心だと責めるのは、こういう考え方に理由があるのだろう。
*なぜそう考えるのか
*なぜそう考えるのか
余人からしたら、教祖と信者が上のような考えを持っているというのは、にわかには信じ難いかもしれない。
けれども改めて、HSの信仰と、HSをとりまく客観的な情勢とを確認すれば、このことは容易に理解できるはずだ。
- HSの信仰…教祖は仏陀の生まれ変わりであり、人々を救おうとしている。
- 客観的情勢…教祖は仏陀であり、人々を救おうとしていると信じる人は少ない。
この二つは、誰が見ても矛盾しているだろうが、通常なら現実に合わせて考え方を変えれば済む話だ。「教祖は神であり、仏陀の生まれ変わりで、世を救うために活動していると信じていたけけれども、30年以上も活動しているのに、それに応じた結果はでていない。選挙では落選したし、信者も、支持者も増えておらず、むしろ減っている。この現実からすると、自分の判断は間違っていたとは思いたくないが、考え直すべき点もあるようだ」と。
しかし硬直化した信仰を持っている場合は、このように現実によって信仰を変えるのは退転、棄教ということになるので、それは決してできないのだ。したがって、信仰も、現実も変えられないとすれば、信仰に合致する現実認識をこしらえるしかなくなり、「世の中には自己中心的な人が多く、そのため教祖が仏陀であり、救世のために活動していることが分からないのだ」と思わざるを得なくなるという寸法だ。
ようは、自分にとって不都合な現実をそのまま受け入れることはできず、「正しい自分たちを受け入れ、尊敬しない世の中は間違っている」と言い張るしかなくなるということ。
*自己中心はどっち?
*自己中心はどっち?
余談ながら、信者の中には退会者に対して、次のように言う人がいる。「自己中心だから、退会することになるのだ。自己に都合がよい時だけの信仰だから、自己都合に合わなくなった途端に、退会し、教団の悪口ばかり言うのだ。総裁先生の言葉の真意を解せず、自己都合解釈ばかりしているから、そうなるのだ」
でも実際のところは、上で触れたように、退会者(退転、棄教者)の大半は、信仰と現実の矛盾を直視したうえで、現実を素直に受け入れ、信仰の間違いを認めることができたから退会できたのであり、いまだに信者を続けている人は、信仰と現実の矛盾に眼を背け、現実を自己都合解釈によって曲げているから、信者を続けているのだ。この点からすれば、どちらが自己中心的であるかは明らかである。
ちなみに、信者は概してアンチより短気で怒りっぽいのも、このことが関係していると思われる。信者は、自分の信仰に都合の悪い現実は見たくない、不都合な現実は自分の信仰に都合のいいように改変してからでなければ受け入れたくないと思っているから、それを許さないアンチに腹を立てるのだ。
*まとめ
*まとめ
最後に、今回の法話と、これまでのHSの主張をまとめると、およそ次のようになる。
- 世の中には自己中心的な人が多く、イエス、ソクラテス、吉田松陰、釈尊の偉さを理解できない。ましてや総裁のことは理解できない。
- 総裁は仏陀であり、神である。総裁を悪く言うのは神仏に対する冒涜である。
- 霊言は本物だ。これを信じないのは霊の存在を信じない唯物論者である。
一方、自分はこういう現実認識をしている。
- 世の中の人々は、大概は、協調性をもって生きている。自己中心的な人ばかりではない。
- 一般的には、イエス、ソクラテス、吉田松陰、釈尊は、偉人聖人だとされている。これにケチをつけるのは、天邪鬼、中二病の人くらいだろう。
- HSに、よくないイメージを持っている人は多い。
- 『自分は仏陀で、救世主で、至高神で、地球神で、国師で、ワールドティーチャーである』と自称する教祖や、『自分は正義であり、神の側に立っている』と誇る信者が、他人のことを自己中心的だと批判するというのは、まったくバカバカしい限りだ。
HS側からしたら、こういう見方こそ、バカバカしく、笑止千万なものに見えるかもしれない。
でも、上から目線で言うようで恐縮だけども、HS信者は自と他を客観的に正しく見、正しい判断をくだすことができるようになるためにも、この辺りについてはもうちょっと考えてみてはいかがかと思う。余計なお世話だろうけれども、老婆心ながらそのことをおすすめしたい。
◇◆ 追記 2020.8.25 ◆◇
*感想あれこれ
◇◆ 追記 2020.8.25 ◆◇
*感想あれこれ
せっかくなので、法話の続きを読み、自分なりの感想を書いてみる。
能力がある人が陥る「魔境」と、それを乗り越えるポイント~法話「自己中心的な生き方はなぜ問題なのか」(3)
総裁はここで頭はいいけれども、自己中で、性格が悪い人のことをあれこれ語っている。
でも自分の経験では、頭のいい人は性格もいいことが多かったように思う。よくできる人のことを妬んで、悪く言う人もいなかった…過去に出会った人の中で、そういう人がいたという記憶はない。注意されたときに、屁理屈を言うというのも、あまり聞かないかな。この辺りの自分の認識は、総裁のそれとは全然ちがう。
ちなみに自分は、小さい頃から納得できないことには反論しないではいられない性質で、学校の先生に怒られたときも、納得できないことがあれば言い返したりしてた。でもどういうわけか、いつも通信簿には素直だと書かれていたのだった。これは担任が変わっても同じだった。たぶん自分はおかしいと思うことには、おかしいと言い返したけれども、筋が通っていると思えばそれは率直に認めたので、担任はここを見ていたのだろうと想像する。
そういえば今でも、楽山は屁理屈屋だという人がいる一方で、楽山の意見には一理あるとする人もいるけど、自分の担任は後者のタイプだったのだろう。
人の上に立つ人に必要な、もう一段深い「人間学」「世間学」~法話「自己中心的な生き方はなぜ問題なのか」(4)
ここでは交通事故で自分に過失があるのに、相手に罪をかぶせようとしたり、道を歩いている人にインネンをつけてお金をとろうとしたり、愛は奪うことだと考えるとか、泥棒を賢いことだと考えるとか、そんなことが一般的によくあることであるかのように語られている。
でも自分としては、「いやいや、そんなことないだろう」と言わざるを得ない。そういうこともあるかもしれないが、決して、一般的ではないだろう。
“生き残る人”に共通する「隠れた努力」とは~法話「自己中心的な生き方はなぜ問題なのか」(5)
ここでは総裁はかつて占い師から、あなたは欲深でないと判定されたことを語っている。また岡田准一は努力家だとして高評価している。
総裁が自分は欲深ではないと考えているらしいこと、欲深で奪おう奪おうとするのはいけないという法話で、岡田准一を高評価していることはおもしろい。結婚絡みの話は知らないのだろうか。
*水と油
*水と油
今回、大川隆法の法話を読んで、改めて思ったのだが、やっぱり自分は大川隆法とはまるきり考え方が合わない。というか、思想がどうこういう以前に、現実認識からして全然ちがっている。
たとえば大川隆法は、世の中の人々の評価は異様に低く、救済対象としてみているようだけども、自分は世の中の人々はみんなまともであって、自分より立派な人はたくさんいると思っている。ニュースやネットを見ていると、おかしな人もいるようだけども、リアルではそこまでおかしい人とは滅多に会わないし、やっぱりみんな普通だろうと思うのだ。
前に、大川隆法の本を読んで少しも共感できなかったときには、氏に対する悪感情があるゆえに、自分は公平に評価できないのかもしれぬと考えたりもしたものだったが、どうもそれ以前に現実認識も、思想も、考え方も水と油くらいに違ってしまっているがため、そのような判断になってしまっているようだ。
世の中には、大川隆法の話を素晴らしいと感じる人はいるだろうし、そういう人はその方向で自己研鑽に励めばいいのだろうけれども、自分はやっぱり別の方向に進むのが合っているし、HS退会したのは正解だったようだ。