*信者ブログ
 信者ブログをみたら、ずいぶん乱暴なもの言いをしていて驚いた。いくらなんでも相手に対する悪感情をぶちまけすぎだろう。


 でも、これまでの経緯からすると、これは楽山批判なんだろうし、そんなら一応、自分の感想を書いてみることにする。


*投影
 まずここでは相手の本音、願望を悪く想像した上で、批判を加えてあるが、これはいただけない。
自由という言葉の奥に隠された本音は、自分の好きなようにさせろ、気ままに生きることでもってよしとさせろ、というワガママ勝手にすぎず、それを自由という美名に置き換えているだけ、という人。
気ままで楽ちんな生活を望んでいるだけなのに、それでいて自由という美名を使いたがる。
 お節介かもしれないが、相手の本音を悪く想像して、こき下ろすというのは、自己紹介にしかならないし、止めた方がいいと思う。
 HSでは、守護霊霊言と称して、論敵は心の中で悪いことを考えていることにして貶めているけれども、いくら信者でもこういう手法は真似しない方がいい。


*意外な発言
 LEO氏は本好きだと思ってたので、この発言は意外に思えた。
本をたくさん読む、とか、読書の習慣がある、ということであっても、それのみで勤勉である証拠とはならないんですよね。
 本を読まない人であれば、読書習慣があって本をたくさん読んでいる人のことを、「自慢してるんだろう」「勤勉アピールしてるんだろう」と悪く言うこともあるかもしれない。
 でも本好きの人にとっては、読書習慣があり、いろいろな本を読んでいるのは当たり前のことであるし、それを勤勉アピール、勤勉ポーズととることはないのではなかろうか。
 少なくとも自分はそうは思わない。本好きの人とか、読書ブログに対して、「どんな本を読んでるの? へえ、そんな本を読んでるんだ。おもしろそうだな。自分も読んでみよう」とは思っても、「読書の習慣があり、本をたくさん読んでいるようだが、それだけで勤勉とは限らないゾ」なんて考えることはない。


*知的生活
 もう一つ、自分にはこの発言も意外に思えた。
他の人にも役に立つ、生産性のあるアウトプットまで行かない場合の読書は、単なる暇つぶしや趣味と言われても仕方がないもので、自分だけの独りよがりの好みでしかないことも多いわけで、

そうした読書が真に役に立っている、というためには、アウトプットしてみて、他の人にとってもそれが役に立つ考え方であるか、知識であるか、モノの見方であるかを問う必要があるのだと思います。
 タイトルは失念したが、渡部昇一のエッセーで、とある人は論文などは書かず、知的生産はしていないが、その蔵書はゆっくりとではあるが着実に良書が増えており、読書を楽しんでいることがわかる、これも立派な知的生活だという話を読んだ記憶がある。
 自分はこの考え方を支持するので、「生産性のあるアウトプット」がないとしても、論文なり、文学なりを読んで感動したなら、それだけでも充分に価値があるのであって、これに対して、「単なる暇つぶし」「独りよがりの好みでしかない」などとは思わない。
 ついでに書くと、名画、名曲、名演奏によって感動したということはそれ自体が素晴らしいことであって、画が描けなくても、曲を作れなくても、演奏ができなくても、他のことにつながらなかったとしても、その素晴らしさは変わらないとも思う。


*指標
 LEO氏は、ブログについて次のように考えているという。
独りよがりでは意味が無い。閑散ブログでは存在する意義がない。

読まれる内容を書けないのなら、まだまだ他の人に感化を与えられる内容を持っていないのであって、そのレベルであってみれば、まだまだ自己研鑽が足りていないということを、自覚しないといけないのでしょうね。
他者が読んでも、そこに参考になるような何かが発信できているかどうか。
これが、自分がブログ記事を書く際に注意している、ポイントの一つですね。
自戒の意味を込めて。 
 これはこれで個人的信条としてはよいのだろうとは思う。ただブログの目的は人それぞれであるから、自分の考えをブログで発表し、多くの人に読んでもらい、影響を与えることを目指す人もいれば、アクセス数は気にせず、自分と向き合うためにブログを書くという人もいるだろう。
 このような多様な価値観を認める立場からすれば、自分のブログ観とは異なるブログに対して、「意味が無い」「存在する意義がない」というのは、いささか行きすぎであり、乱暴である。大川隆法は著書の売れ行きや、社会的影響力の大きさを自慢げに話す人なので、信者がそんな風な考え方になるのも仕方ないことではあるが、これが唯一の判断基準であって、それ以外の判断基準は認めないとしたら、おかしなことだ。


*全体の感想
 LEO氏の考え方は、自己の向上が大切であって、自分がどれだけ向上できたかどうかは、ブログの影響力によって確認でき、これに益しない読書も、書くことも意味がないというものであるようだが、自分は、読書そのもの、書くことそのものに価値を見出したく思うタイプなので、申し訳ないけれどもLEO氏は、読書そのもののおもしろさ、書くことそのものの楽しさをご存じないように思えた。
 もし読書および書くことそのものを目的とすることはできず、それらを自己実現の手段としてしか見れないとしたら、自分とはまったくちがった感性、価値観であるし、話が合わないのも致し方ないなと思う。


*HSの自由論
 当該記事では、こちらの記事がリンクされていたので、ざっと見てみた。


 ざっと見ただけなので、見当違いになっていたら申し訳ないのだが、どうやらここではHSの自由論が書かれているようだ。
 自分の理解では、HSの自由論とは、大体、次のようなものだ。「人は、自由だからといって、何をしてもいいというわけではない。大川隆法を悪く言ったり、大川隆法の説く教えに反することをしたり、大川隆法の活動を邪魔する自由はない、そんなことをしたら、その罪の報いとして地獄に堕ちることになる」云々。
 これは信者からしたらリアルな話なのだろうけれども、傍から見たら、さして説得力はなかろうと思う。


*小説家の霊言
 ついでに、リバティ記事にも感想を書いてみる。

 HSの霊言では、どの霊もHSの世界観、教義にのっとって話をするばかりで、自分の専門については語れないものばかりだが、本記事もそのようになっているようだ。
 文学者の霊言ということになっているが、自らの作品の創作秘話や、本人しか知り得ない文壇でのマル秘エピソードなどについては触れられておらず、HSの世界観(天国と地獄)についての話がしてあるだけだ。
 こういうものは、HSの世界観を信じている信者以外には、あまり興味は持たれないだろう。


*経緯
 最後に、これまでの経緯をご存じない方もおられるかと思うので、その点について書いておきたい。
 まずこの信者氏と、楽山とのかかわりは、言論の自由についての意見が対立したことが始まりだった。


 その次は、ブログ村の幸福の科学カテゴリーにおいて、信者と信者が対立した際に、自分はこの信者氏には批判的な立場をとって不興を買ったのだった。


 傍から見たら、こういうことはどーでもいいことだろうけれども、こういう経緯を知ってもらえれば、信者氏がかなり感情的で、極論的な発言をしている理由についての理解が容易になると思うので、一応、参考までに書いておくことにする。