シルバーバーチの霊訓(二)500
*全体の感想
 本書を読むと、妄信、軽信を戒める言葉が多いことが印象的である。以下に、その点について書いてみたい。


*常識、知性、理性という基準
 まず、シルバー・バーチは次のように述べている。
いつも申し上げているように、もしも私の言っていることが変だと思われたら、もしもそれがあなたの常識に反発を覚えさせたり、あなたの知性を侮辱するものであれば、どうか信じないでいただきたい。

(『シルバー・バーチの霊訓(二)』シルビア・バーバネル編、近藤千雄訳、潮文社、昭和60年、p.126)
私たちは盲目的な信仰、理性が同意できない信仰、不可能なことを要求し奇跡を期待するような信仰をお持ちなさいと言うつもりはありません。

(同上、p.126)
 常識から外れたもの、筋の通らないもの、デタラメなものは信じてはいけないというのは当たり前であるが、奇跡を求め、有り難がることにも釘を刺していることは印象的だ。
 新興宗教には、奇跡を宣伝し、それを信じ、有り難がることをすすめるところが目立つが、この部分を読む限りにおいては、シルバー・バーチはそれとは違う考えを持っているらしい。


*理性的判断
 ここでは理性的判断の重要性を強調している。
交霊会に出席している人が一瞬たりとも理性的判断をおろそかにしてよいと言っているのではありません。これは神からの贈物です。支配霊が誰であろうと、通信霊が誰であろうと、もし言っていることが自分の理性に反発を感じさせたら、それはきっぱりと拒絶するのが絶対的義務です。

(同上、p.135)
 理性は神からの贈物であるから、これを一つの判断基準として大切にしなさいというのは分かるが、理性に反発を感じたら、拒絶するのが義務だというのはすごい。
 原書ではどうなっているかわからないが、この翻訳からすると、「理性に反すると感じたら拒絶してもよい」という緩いものではなく、「理性に反すると感じたら拒絶しなければならない」というニュアンスであるし、これほど強く言うということは、よほど大切なことなのだろう。
 また通信霊がどういう存在であろうとも、それがたとえ高級霊だったとしても、理性的判断を優先すべきとしている点も大事だ。「神がいうことだから信じる」「仏陀の言葉だから信じる」という権威主義的な発想はカケラもない。


*理性の光
 ここでも、「理性の光に従うように努めなさい」ではなく、「理性の光に従わねばならない」という強い表現になっている。
「私が ぜひとも指摘しておきたいことは、霊的知識の恩恵を受けた者はあくまでも理性の光に従わねばならないということです。他界した霊がこうして再び戻って来るそもそもの目的は、父なる神が子等に授けた全才能を発揮するように地上人類を促すことです。知識の探求、叡知と真理の追及において理性を無視したり、道義の鏡を曇らせたり、良識を踏みにじるようなことがあってはなりません。

(同上、pp.56-57)
 また真理の探究において、理性に従うことのみならず、道義や良識にも反してはならないとしている。これはつまり、霊的な事柄を探求するからといって、一般社会からみて奇人変人、トンデモであってはならないということなのだろう。これはもっともなことである。
 ちなみに、とある新興宗教も初期の頃は、これと似たことを言っていたのだった。人の本質は霊であり、転生輪廻をくりかえしつつ、霊性を向上させているという霊的人生観を持ちつつも、一般社会の常識をもわきまえた「偉大なる常識人」となることを目指そう、と…。でも近年はそれとは正反対の立場をとり、「常識に負けるな」を合言葉にして、一般常識を軽視し、常識に反することを奨励するかのような方向にすすんでいるのだからあきれる。
 こういう事例からみると、つくづく新興宗教というものは、まともっぽいことを主張していたとしても全然信用ならないものだと思う。一時的にはまともっぽく見えたとしても、その時々の都合によって反対方向に方針転換が為されないとも限らないのだ。とくに、教祖の一声で教団の方針が決まる教祖崇拝型の新興宗教では、この危険性は高くなる。


*性分
 シルバー・バーチは、理性的判断のみならず、自分の性分に合わないものは拒否してよいとしている。
いかに立派な霊であっても、いかに高級な霊であっても、いかに博学な霊であっても、その説くところがあなたの性分に合わない時、不合理あるいは不条理と思える時は、遠慮なく拒否するがよろしい。あなたには自由意志があり、自分で自分の生活を律していく責務があるのです。

(同上、p.58)
 これはさすがに言いすぎであって、たとえ自分の性分に合わなくとも、それが真理であるなら受け入れなければならないだろうし、もし性分に合わないことを理由にして受け入れないとしたら、それは単なる自分勝手、わがまま、エゴではなかろうかと思う。
 でも、人には個性があり、その個性は神によって与えられたものだと仮定するならば、自分の性分に合わないものは拒否するというのは、必ずしも神の御心にかなわないことではなかろうし、一理なくもない。シルバー・バーチはそういう視点から発言しているのであろうか。
 この辺りは判然としないものの、個人、個性は尊重すべきものだということからすれば、自分の性分に合わないものは拒否するというのは合点が行く。


*意固地?
 これは意固地、強情のようにも思えるが、上の個人、個性の尊重という立場からすれば、当然の判断ではある。
あなたも自由意志を持った一個の霊であり、簡単に自分の考えを譲るようなことをしてはいけません。

(同上、p.60)
 おそらく、これは心から納得することが大切だということなのだろう。「私は絶対に、心から納得するまでは、自分の考えは変えないぞ」という姿勢を貫こうとすると、「頑固だ」「意地っ張りだ」「屁理屈をいって自己正当化している」「素直でない」「わがままだ」「自由を履き違えている」など、さんざん悪口をいわれる結果になることが少なくないのではあるが、納得できないものには決してイエスと言わないというのは、本当に大事なことなのだ。
 あまり表立っては言えないけれども、自分は空気を読んで周囲に合わせとくとか、議論が面倒になるといい加減なところで相手に譲っとくとか、興味がないこと、どうでもよいと思えることは、何でも相手に譲りっぱなしにしとくとか、適当なところがあるので反省したい。


*信じること
 以上、妄信、軽信を戒める言葉を拾ってみたが、シルバー・バーチはそればかりではなくて、信じることの大切さについても触れている。
ある程度は〝信じる〟ということがどうしても必要です。なぜなら全てを物的な言葉や尺度で表現することはできないからです。霊の世界の真相の全てを次元の異なる物質界に還元することはできないのです。

(同上、p.126)
 この世を超えたことについては、この世の尺度ではかることはできず、そこは信じることが必要になるというのは当然の理屈ではある。この点において、上の言葉は正論だ。
 ただここでいっているのは、あくまで、霊の存在をまったく信じない人、信じられない人に向かって、時には信じることも必要だといっているのであって、霊のことを信じている人、信じやすい人に向かって、なんでもかんでも、どんどん信じなさいといっているのではないことは言うまでもない。
 ちなみに、自分語りで恐縮だけども、自分はもともとは、不思議な話は何でも信じてしまう性質である。霊、神、天使、悪魔、妖怪、妖精、小人、宇宙人、UFO、異次元、超能力などはもちろん、ドラえもん、サイヤ人、北斗神拳なども実在するかもしれない、実在したとしてもちっともおかしくないと考えてしまう性質である。おそらくは、自分がトンデモな新興宗教にハマってしまったのは、このせいもあった。
 そんなわけで、自分の課題は、「信じること」ではなく、「信じすぎること」を克服することにあると思うし、いましばらくは、信じることの大切さは承知した上で、あえてトマスのようでありたいと思う。


*対機説法と誠実さ
 ここまで書いて思ったけれども、この霊訓で理性的判断の大切さを説いているのは、質問者、読者に合わせた対機説法であるのかもしれない。
 この霊訓を読むのはどういう人かといえば、おそらくは霊的なことを信じている人、または信じやすい人たちなのだろう。とすれば、そういった人たちには、「信じよ、信じよ」といって煽るより、「理性的であれ」と説き、信仰の暴走を戒めるのは当然であり、賢明なことだ。
 とある新興宗教では、信じやすい性質の人たちを集めて、「信じることは尊い、信じよ、信じよ」と繰り返し説き、信じやすい性質をますます助長させ、理性や常識に反した判断、行動をするように仕向け、操っているのであるが、この霊訓にはそういうことをするつもりはないということなのだろう。
 と、こんなことを考えてみると、このシリーズが、スピリチュアリズムのなかの古典となり、広く読まれ、支持されている理由が、なんとなくわかったような気がする。一般世間から見たならば、スピリチュアリズムも、心霊研究も、あやしい新興宗教も、どれもこれもカルトっぽく見えるだろうが、この点においてはシルバー・バーチの霊訓は、カルト対策として有効だと言えなくもなさそうだ。