*およそ一カ月遅れ
 先日、この記事を見た。日付からすると、公開日からおよそ一月遅れ。
 大分、出遅れたけど、自分の感想を書いてみる。

『アンチとのディベートは不毛だなぁと今更ながら振り返る』記事のその後 - LEO幸福人生のすすめ(ライブドア版)


*勘違い
 まず、これは勘違いだね。
この人物は、ブログ村に乱入して信者ブログを誹謗しておきながら、そこを追い出されたら、言論の自由の侵害だと述べていたアンチですが、言論の自由の意味がわかってないよね君、といって私に切り返されたのが余程悔しかったのか。
 楽山日記は、ブログ村から追い出されたことは一度もない。信者たちから通報されなかったか、通報されたとしても、管理者の判断でOKだったのだろう。ようは誹謗中傷はしていないという判定。これは統一教会信者のブログも同様だ。
 LEO氏は、強制移動させられた他のアンチ氏と勘違いしているのだろう。


 当時、LEO氏は、幸福の観測所から軽く批判された後は沈黙してた。もしかしたら何か言ってたかもしれないが、自分には記憶はない。ようはアンチから見て、いてもいなくても分からない状態。
 LEO氏は、その頃に感じた悔しさ、論敵のことの記憶が混乱しているのだろう。


*印象操作
 この要約の仕方だと、楽山は「好き勝手に言いたいだけの自由」を主張しているみたいだ。
好き勝手に言いたいだけの自由論は、悪魔の自由論であって、責任という言葉が一つもないところに、その特徴がある。今でもこの人物は、自由という言葉を使いたがりますが、権利としての自由ばかりを言って、責任を語る言葉がほとんど見受けられません。それを当初から指摘してあげてるんですけどね。わかっていないようです。
 楽山は、当初から、言論は自由としつつも、誹謗中傷はだめ、公益との合致が必要、相手の人権を尊重し、権利の濫用にならないように注意すべきだと書いている。

★ 言論の自由について (言論の場の自由など) - 楽山日記


*投影
 これは楽山よりも、LEO氏によく当てはまる。
自分の主張に都合の悪い情報は意図的に無視、スルーする、採用すれば自分の論が破綻するから。
なので、都合の悪い情報は、見ていても知らないふりをするんですよね。これ、まっとうな思考の出来ない自己中人間の、典型的な特徴なんですけどね。
 ブログ村騒動において、楽山は、基本的に、対立する両派の記事を紹介しつつ、自分の感想を書いていた。読者は両派の主張を読んだあとで、自分の考えをまとめることができて、楽山とは違う考えを持つのも自由だ。
 一方、LEO氏は、一般論として事実関係をぼかして、名指しはせず、遠回しに相手を批判することが多い。批判対象の記事は紹介しない。批判コメントは削除対象になっている。読者はLEO氏の話だけを聞かされ、判断させられる。
 反対意見は隠して、自分の言い分ばかりいいつのる自己中が誰かは、明らかだろう。


*被害者?
 これだけを読むと、楽山だけが一方的に粘着していたみたいだ。
この人物以外では、そこまでしつこいのは他にいなかったので、きわめて特徴的なしつこさを持った粘着アンチなんですが、その悪質さとしつこさは事実あったのでね。
ここで晒しておこうと思います。蛇のようなしつこさで、まぁ気持ち悪いことこの上ない。
 でも実際には、楽山ばかりでなく、LEO氏も批判記事をたくさん書いている。
アンチという立場に立つうえでも、悪質であり、粘着質であり、懐疑主義であり、屁理屈、詭弁の輩であってみては、まともな信仰論など語れるはずもないので問題外のレベルなのですが、モノの考え方に置ける問題点、誤った事例のサンプルの一つではあるので、抽出できる要素があったらそれを一般化して、ときどき記事にすることが今後もあるかと思います。 
 こんな風に、一般論という形で事実関係をぼかして、遠回しに批判するようなことを書き続けていながら、自分が反論されると、「粘着された」「ストーカーされた」というのだから、ズルい。
 LEO氏はこんな風に、自分が相手にしたことは隠して、相手からされたことばかり強調して、さも自分が被害者であるかのように吹聴する癖がある。


*デマ
 これも事実誤認だ。
幸福の科学を退転して、旧来のキリスト教に信仰を変えたつもり、その上で、幸福の科学および総裁先生、それから私のような一信者のブログにまで執拗に絡んでくるストーカーアンチの正体はいかに?
 自分は改宗したつもりはない。だから、キリスト教的だと言われると、少々驚くのだ。


*事実誤認
 これだと、ブログ村騒動に、楽山が飛び入りしたみたいだ。
だいたい、当該信者同士の論争にまったく無関係のアンチが、何の必要があって出てくるのか。 
でも実際には、楽山はそんなことはしていない。当事者のブログにはどこにも訪問せず、離れたところでひっそり騒動を眺め、自分のブログで感想を綴っていたくらいだ。
 現実の支部で、信者同士のいさかいを見て、ガッカリしたことがあったので、まるでその再現のようなブログ村騒動を見ながら、いろいろと思うところがあったのだ。


*皮肉
 これはたしかに、ヘンテコな理屈だ。
幸福の科学以外のことを書いたら、それは幸福の科学よりもそちらの方が良いと思っているから、それらを書くのだろう、なんていう屁理屈難癖が通ると思いますかね?みなさん。通らないでしょう?
 でも批判対象になっている記事を読めば、この要約はなんか違うのが分かるだろう。


 ここでの意見は、たとえ話にするなら、HS信者で、般若心経の読誦を勧める人がいたら、「般若心経の一万倍の功徳がある正心法語があるのに、なんで般若心経をすすめるの? 正心法語より般若心経の方が功徳があると思ってるの?」という皮肉だ。


*支部の思い出
 余談ながら、自分が通っていた支部では、こんな考え方が主流だった。「HSの教えは、最も高度な真理だ。他所で説いているようなことは、すでにもっと高く、広く、深く説いている。HSの教えを学べば、他宗教の神髄も分かる。わざわざ他の本を読む必要はない」
 だから他思想、他宗教の書物を読んでいると、咎められはしないが、「ご苦労様、ふふふ(笑)」ということにもなる。仏陀の法が説かれているときに、ずいぶん遠回りで無駄なことをしてるなあと。
 こういう支部の空気を知っていれば、上の皮肉はすぐに分かるはずなのに、なぜ分からないのだろう。


*認知の歪み
 どうやらLEO氏は、間違っているのは相手であって、自分は違うと考えているらしい。
あまり、かような批判をするのも、読んでいる人は読んで気持ちがいい記事ではないかもしれませんが、邪悪なものや、間違ったことを言いふらす人物に対しては、私としてはハッキリと切り返すことも大事という立場なので、あえて今回はここまで書いてみました。
 一般論というかたちで、事実関係をぼかして書く場合は間違いがあっても目立たないが、相手を特定して具体的に批判を加えようとすれば、間違いがあれば隠しようがなくなる。
 お節介かもしれないが、LEO氏は、記憶、認知に不安定なところがあるようだし、後者ではなく、前者のスタイルで書いた方が無難だろうと思う。


*小休止
 ふう。一休み。
 つづきはこちら





◇◆ 追記 2020.9.29 ◆◇


*ORの教えが中心
 遅ればせながら気づいたけど、いつのまにか、ORの教えが中心だということを強調する記事が、ブログトップにかかげてあるんだね。

あらゆる宗教・哲学を内包している幸福の科学の教え【TOP固定】- LEO幸福人生のすすめ(ライブドア版)

 まあ、信者なら、こういうことはいくら強調しても、強調しすぎってことはなかろうとは思う。私は信者ではないので、これは馬鹿馬鹿しい主張だと思うのではあるが、信者ならこれをまじめに信じ、主張するのが当たり前ではある。