20200925 島田裕巳『キリスト教入門』
 タイトルから、キリスト教の基本を教えてくれる本なのだろうと思ったのだが、実際に読んでみるとキリスト教の神秘性をはぎ取る内容になっていて驚いた。意表を突かれた気分。
 たとえば著者は、福音書にあるイエスの言行は、後世の創作だということをほのめかすようなことを書いている。新約聖書にある文書は、成立順に並べれば、パウロ書簡、福音書、使徒言行録、黙示録であり、パウロ書簡には一部例外を除いて、福音書にあるイエスの言行については触れられておらず、このことから福音書にあるイエスの言行とされるものは、パウロの活動していた期間には知られておらず、その後に広まったことが推定されるのだそうだ。
 パウロの劇的な改心についても、これと同じ論法で否定されている。使徒言行録では、パウロの劇的な改心について書かれているが、それに先行するパウロの書簡ではそれほど大きくは語られていない。もし使徒言行録にある神秘体験が本当であれば、パウロの書簡でも大きく取り扱われているだろうに、実際はそうはなっていない。これはつまりパウロの神秘的で劇的な改心は、パウロの書簡が書かれた時よりも後になってからできた話だということを示しているのではないかと…。
 著者はこの他にも、キリスト教のマーケティングとイノベーションだとか、パウロの顧客創造などと言って、企業経営の観点からキリスト教を論じたり、日本のキリスト教では預言者と予言者を区別するが、英語では両者は区別せず、どちらもProphetということになっているだとか、日本では「聖母マリア」と呼んで、マリアの母性が強調されるが、海外では「処女マリア」として処女で身ごもったことが強調されているとして、日本のキリスト教は、元々のキリスト教とは違っているかのように語っているのだから驚かされる。
 本書の冒頭において、著者は、キリスト教の入門書は多くあるが、大抵は、キリスト信者による布教を目的とした本ばかりなので、キリスト信者ではない者による客観性を保った入門書を書いてみようと試みたとしているが、全体を通読してみると、著者の真意ははたしてこの通りのものであったのかどうかという疑念を抱かないではいられず、それを払拭するのは難しい。私見ながら、本書は「キリスト教入門」ではなくて、「キリスト教の正体」だとか、「キリスト教の現実」とでも題すべきものだと思う。