*ひさしぶり
 LEO氏が、st氏の楽山批判を高評価していたので、試しに読んでみました。
ウソの国ー詩と宗教(戸田聡 st5402jp)
https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12601206835.html 
https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12562708980.html
(※このあたりで引用されている該当アンチの、幸福の科学への批判の浅はかさ・愚かさに唖然とすると思います) 

 以下に、自分なりの感想を書いてみます。
 今回は、文字色を変えた方が見やすくなると思うので、次のように設定しておきます。

(st氏に、引用された楽山の文章)
(st氏の文章)
・黒(今回の楽山の文章)


*記事別
 まずは、こちらの記事から。↓


 本来なら、要点だけ引用し、コメントすれば十分でしょうが、今回は全文について感想を書きます。


*冒頭部
楽山の、いい加減な理路と、作為的な詭弁と、無反省のもたらす、乾いた垢のような嘘と詭弁と認識不足が、漏れてきます。
 
*知
知と聞くと、『知の原理』の冒頭で紹介されていたピンの話を思い出す。自分の通っていた支部ではこの影響を受けて、何か問題があると決まって「ピンは何か」という議論になったのだった。今でもこのピンの話はいい話だったと思う。
ただこれはアランのエッセーにある話を、大川隆法が紹介したものであるから、大川隆法というよりアランが偉かったということだろう。考えてみればこの話に限らず、大川隆法の話の中で、自分が感動したことの多くは、他者の受け売りであって、大川隆法自身が発見体得したものではないことが多い気がする。
 
困りますね。ピンは何か、と言いながら、いい話だったと、説明も解説も無しです。 
 当該記事の冒頭で示しているように、ここで想定している読者は、HS教義を知っている人です。したがって些末な説明ははぶいてます。あしからず。
 ピンの話について知りたいなら、大川隆法の「知の原理」、アランの「幸福論」を読めば分かります。



*神の一面
ああそうだ。大川隆法の本…たしか『太陽のメッセージ』だったような気がするが、浜辺の足跡の話を読んで大いに感動したことがあった。守護霊がおぶってくれているという話で、こんな話ができる大川隆法はすごいと思ったものだった。でもそれからずいぶん経ってから、曽野綾子の『老いの才覚』で、これと同工異曲の詩が紹介されているのを読んで仰天させられたのだった。浜辺の足跡の話は大川隆法のオリジナルではなくて、キリスト教の方ではとても有名な詩だったのだ。こういうのはズルいと思う。(参考・浜辺の足跡 ・Footprints 『浜辺の足跡』 アデマール・デ・パロス)
『仏陀再誕』にある草笛の音の話は、今でも好きだが、もしかしたらこれも仏教説話かなにかが元ネタになっているのかもしれぬ。
 
フットプリントの詩は、いつも助けてくれる神を描いている好い詩ですが、残念ながら、欠点として、戒める神と懲らしめる神への恐れを描いていません。その結果、カルトに、いいように利用されています。凶悪カルトの偽善者シャロームも引用していました。
 神の愛をテーマにしたであろう詩について、懲らしめる神について触れていないのは欠点だというのは、いささか酷な批評です。
 どれほどの言葉を重ねても、神のことは語りつくすことはできないでしょう。一編の詩であれば、テーマを絞らざるを得ないでしょうし、神の一側面が描かれていれば上出来だと思います。
 またHSでは、神の愛を説くこともあれば、厳しい神罰を説くこともあります。カルトは、愛の神に限らず、戒める神、懲らしめる神も、マインドコントロールに利用するものです。


*ズレ
さて前置きはこれくらいにして本題に入ると、HSでは与える愛のためには知が必要だとしていたと記憶しているが、自分の経験からするとこれは違うように思う。
たとえば生かす愛の実践のために知を用いようとした場合、自己の内面をよくよく観察すれば、心に理想を描き、自分の影響力を行使して、相手をそれに近付けようとしていることに気が付くだろう。つまり、「Aはこうあるべきだ」として、現実のAが自らその方向に進むように誘導しようとしている。これはHS的には奪う愛だろう。愛に知を持ち込めば多かれ少なかれこういう落とし穴は避けられないと思う。
 
HSというカルトのことですから、愛のために知が必要というのも、奪う愛以前に、愛ではなく、思いこみや信じ込みから従順への誘導のことでしょう。
 
恐ろしいことですが、楽山は、「愛に知を持ちこめば・・落とし穴は避けられない」という結論に結び付けてきます。愛が偽物であれば、知?を持ちこむ話も、嘘なのです。
 
楽山の話は、愛と知を結び付け、カルトという前提もなく、知が誘導であり、ゆえに、愛の落とし穴は避けられない、などと、成り立たない話を前提にして語る、愛をおとしめる詭弁です。カルトには、楽山やシャロームなどの易坊類がそうであるように、愛は成り立たず、信じ込ませる詭弁・誘導があるだけです。
 HSの教えと現実の人の愛についての話に対して、st氏はカルトの教えは間違いに違いないと決めつけた上で、ご自身の考える理想の愛について語っています。
 これは全然別の話です。大雑把に言えば、私が「Aはバツである」と書いたのに対して、st氏は「Bは☆なのだ」と主張しているようなものです。これでは話は噛み合わず、議論になりません。
 また私がいっているのは、「愛をおとしめる詭弁」ではなく、人には、私心の無い、完全な愛を実践するのは無理だろうということです。愛を否定しているのではなく、人の不完全さの指摘です。
 ある程度の内省力と信仰心がありさえすれば、自分がどんなに利他に尽くしているつもりであっても、心の奥に潜んでいる利己心に気づかないわけにはいかぬでしょうし、もし仮に真から利他に尽くせたときがあったとしても、それは神の働きによるものであって、自分の力によるものではないことが分かるでしょう。私の文章はこれを実感している人に向けて書いたものですが、残念ながら、st氏には全然伝わっていないようです。


*誤読? 歪曲?
またHSでは、知の世界より信の世界の方が広いとしていたと記憶している。「知ることと信じること」という論考だったろうか…。自分はこれは反対だと考える。人は知っていることしか信じることはできないのだ。
 
知っておれば、信じる必要はない、ということで、楽山は、宗教と信仰には、まるで関心を持てない人だということが明らかになっています。
 私の書いたのは、「人は知っていることしか信じることはできない」です。「知っておれば、信じる必要はない」ではありません。

A「人は知っていることしか信じることはできない」
B「知っておれば、信じる必要はない」

 Aを読んで、Bという意味だと受け取るというのは、どうかしてます。st氏は、昔から、この種の誤読、歪曲、捏造が多いです。気をつけてください。


*またもや、ズレ
神、霊、あの世、宇宙人…などの観念、言葉を知ってから、それを信じる、信じないという選択が生じる。もう少し詳しく書けば、特定の観念、言葉を知ってから、それが現実かどうかの確認があり、その結果現実と確認できなかったものについて、信じるか、信じないかという選択が生じる。知の世界は、信の世界よりもずっと広いし、信の世界と不信の世界は同程度の広さを持つのだろう。信の世界はそれほど広いというわけでもない。
 
楽山は、知らないと気が済まず、偽りの知識と思考を振り回してきました。その体質が明らかになっています。全能の神を知ってから信じるというのは、最初から出来ないことです。
 
信仰は、神・キリストを信じるのであって、その材料は、自分が聖書を読んで、どう感じたかにかかっています。そして、聖書に感動した人は、キリストに希望を託すようになります。
 
楽山は、聖書を読んで、何も受け取らなかったのなら、知って信じる信仰どころか、感じて信じる信仰にも縁はないでしょう。知ってから信じる、というのを、神に当てはめる楽山の思い上がりの酷さが浮き彫りになっています。
 
現実において確認できなかったというのも、字面の知識にこだわっているからであり、感性も知性も、頭も心も、反省せず学習しない楽山においては、信仰に至る器と成っていないのでしょう。
 
楽山は、恐らく、目に見えるものと字面だけでは信仰は語れないことを、自己愛の自尊過大から認めたくないようですが、信仰を語れば、いつも、的外れになってきた理由を自ら表しているのです。
 
だから、自分の知の世界に悦に入るほど慢心し、はてしない神の世界を愛することも恐れることも出来なくなっています。カルト信者の多くは、そうなのかもしれません。 
 お尋ねしますが、st氏は、全能の神、キリストという言葉も、観念も知らず、聖書も全く読んだことのない状態で、全能の神、キリスト、聖書を信じることはできるでしょうか。無理でしょう。私が、信じるまえに、知る必要があるというのはそういうことです。
 また、私の意見は、「人は、全能の神の全てを知り尽くしてからでなければ信じることはできない」というのではありません。「人は、『全能の神』という言葉、観念を知らないうちは、それを心に思い浮かべることも、思案すること、信じることもできないだろう」というものです。
 ちなみに、近頃のHSでは、大川隆法は、エルカンターレという神の名を知らしめ、エルカンターレ信仰を打ち立てるために降臨したといっているようです。これはつまり、エルカンターレ信仰をはじめるには、まずその名と概念を知る必要があるということでしょう。信じる前に、知る必要があるということです。当然ながら、この「知る」は、「知り尽くす」ということではなく、もっと広い意味での「知る」です。


*カルトに加担する人
最後にHSでは、霊的知識の大切さを説くが、この世では霊界も過去世も何も知らない状態で、いかに善く生きるかが課題とされているとすれば、いたずらに霊的知識を求めるのはおかしなことであるし、一種のカンニングと同じ不正行為となるだろう。
 
カルトは、その人が罰せられるだけの「カンニングと同じ不正行為」ではなく、他者を巻き込んで人格と人生を破壊してゆくところの、インチキで悪質な詐欺行為なのです。 
 カルトは布教活動に熱心なところが多いですから、「他者を巻き込んで~」というのはその通りではあります。
 ただし、st氏は、そういうカルトを、間接的に応援していることを自覚すべきです。
 HS信者のLEO氏は、st氏によって、自分の信仰の正しさを改めて確信し、信者仲間にむかって、stブログを宣伝しています。
 この点において、st氏は無自覚ではあっても、カルト批判の無効化に力を貸しているわけであり、カルトの協力者です。


*カルトを知らない人
この世において霊界では決して会うことはできない存在から高度な法を学ぶというのは有り難いことではあろうが、波長同通の法則からすれば本来の自分の霊格以上の教えは聞いても聞こえず、そうたやすく身につくものでもない。ましてや霊的知識の学びを自発的に求める者ならともかく、伝道と称してそれを欲しない者に無理強いしても仕方ない。それはカンニングの強要と同じくらいに間違ったことである。
 
カルトというのは、難しい言葉や言い方を好みます。偉大さを装うためです。そういう話を聞いていると、結局、教祖だが持っている能力という話になるでしょう。そこで、カルトの悪臭にも醜悪さにも気づかない者だけが、カルトに魂を売り渡す経過と結果になるのです。 
 カルトの中には難しい言葉を使いたがる団体もあるかもしれませんが、HSは基本的に平易で、分かり易く教えを説いています。
 ですから、st氏の「カルトというのは、難しい言葉や言い方を好みます。偉大さを装うためです」というのは、HSには必ずしも当てはまりません。
 ヨシュア氏は、st氏はカルトのことは知らない云々と書いてたと思いますが、これは当たってると思います。


*自分の信者?
*反省
 HSでは反省の前提として、正信…正しい信仰が必要だと説いていたと記憶している。たしか『真説・八正道』だったろうか。
 自分の考えでは、これはHSの教えを基準にして判断することであり、教団に尽くす善き信者になるための反省ではあっても、善く生きる善き人になるための方法ではない。
 
楽山は、宗教と信仰を語るのに、自分の、字面しか見ないような思考を正しいということを前提としています。つまり、カルト教祖が、自分自身になっているだけです。楽山は、まさに、自分の善き信者になっているので、それは、全く、人間として善き人には成れない生き方なのです。
 私がここで書いていることは、教祖の言葉はすべて正しいと信じ込み、その言いなりになるような妄信に陥ってはいけないということです。たとえ教祖の教えであっても、それが正しいかどうか、よく考えるべきだということです。自分の心を、すべて教団に明け渡してはいけないということです。自分の良心を大切にすべきだということです。
 こういうことをいうと、HSからは、「それは自分を教祖にした自分教だ」という反論がありますが、st氏もこれと同じ論法をしています。こういうところが、st氏が、HS信者から高評価される所以でしょう。


*言葉選び
たとえば、この場合の反省は次のような形になるだろう。
・自分は、エル・カンターレの教えに背かなかったか?
・自分は、エル・カンターレの教えを実践できたか?
こういう反省を繰り返していたら、善き信者になることはできるだろうが、万人が認める善き人になるのは難しいだろうことは明白だ。
 
楽山は、カルトの教祖中心を語りながら、万人が認める善き人になるのは難しいなどと言っていますが、万人が認める善き人などいません。楽山の高慢な楽天的誇大的な軽口が滑っています。楽山の、謙虚でないところが、あちこちに表れていますし、書けば書くほど、子供の洟(はな)垂れのように、さらに表れるでしょう。
 ここでいう「万人が認める善き人」というのは、「すべての人が認める、一切の悪を持たない義人」という意味ではなく、「多くの人が認めるいい人」といった意味合いです。
 私の言葉遣いにもまずいところはあるでしょうが、流れを無視して、こういう細かいところにツッコミを入れたところで、全体の主旨はさして影響されないから、あまり意味ないです。


*神聖不可侵と反省
反省の前に、正信としてエル・カンターレ信仰をおけば、どんなに反省したところで、エル・カンターレ信仰自体は反省の対象にならず、それが正しいかどうか吟味することはできなくなる。反省とはすべてをその対象とするからこそ効果があるのであって、何かを神聖不可侵としてしまっては意味がなかろうと思う。
 
楽山は、カルト教祖などは全く神聖ではないのに、教祖を利用して、神聖不可侵のほうを否定しようとしています。白々しい詭弁です。
 
神聖は、元々、不可侵であり、知ることも、分かることも、見えることも、この地上では出来ない存在として、在って在るもの、という言い方をします。人間は、ただ、神のもとにある自覚をもって、正直に祈る暮らしの中で、神に対して劣る者としての謙虚さ、すなわち敬虔を学ぶのです。 
 HS界隈では、「大川隆法が神だとは信じない」というと、信者側からは「神を否定する発言だ。神を信じない無神論者だ」という非難が返ってきます。どうも信者の脳内では、「大川隆法が神だとは信じない」というのは、「神は信じない」という風に切り替えられるらしい。
 st氏もこれと同じです。「大川隆法を絶対視してはいけない」という意見に対して、〈それは神を否定する発言だ。神は絶対の存在だ〉というようなことを返してきてます。こういう話のズレ方は、HS信者とst氏はそっくりです。
 また、st氏の言葉に付き合って話したとしても、st氏が、「神聖は、元々、不可侵であり、知ることも、分かることも、見えることも、この地上では出来ない存在」と言った時点で、この議論は終わっています。
 人は、神聖を知ることも、分かることもできないのであれば、人には「これだ! これこそが神聖不可侵な存在だ!」という判断は決してできないことになります。だから私は、人が何かを神聖不可侵だと信じたとしても、その判断は正しいかどうか、よくよく吟味すべきだというのです。
 私が言うのは、「神聖不可侵な存在を疑え! 否定しろ!」ではなく、「これこそ神聖不可侵な存在だ!」という自分の判断は正しいかどうか考え続けるべきだということです。


*HS用語
*発展
自分の記憶では、発展とは愛の拡大であり、より多くの人々を幸福にすることだと教わったように思う。これには、なるほどと共感できる。
 
発展を、愛の拡大と言っているのは、どこで教わったのでしょう、HSなんでしょうか。楽山は、なるほどと共感できる、と書いています。HS独自の意味付けであろう"発展"という熟語、・・抜けきっていない部分でしょう。
 上に述べた通り、この記事は、HS教義をテーマとしており、それについてある程度知識のある人に向けて書かれたものですから、HS用語を使うのは当たり前です。
 カルト批判には、外部の論理によって批判する方法もあれば、内部の論理によって批判する方法もありますが、ここで行っているのは後者であり、カルト教義および世界観の内において、その矛盾を暴くというものです。ですからカルト教義の用語を用いるのです。
 こういう事情を察せず、HS用語を使うのは、マインドコントロールが抜けきっていないとか何とかいうということは、st氏はカルトも、マインドコントロールも何もご存じないことを自ら暴露しているということです。申し訳ないですけど、HS批判について、知ったかぶりをして、ちょろちょろしてくるst氏は、非常に邪魔です。
でも大川隆法の主張を聞いていると、信者数、公演回数、霊言回数、著作数の多さを繰り返し強調し、それらを増やすことをもってHSの発展と自分の偉大さの証明としているようだ。常々唯物論は間違いだと言ってはいても、この主張を見る限りはかなり唯物論的な思考、価値観によって発展をとらえているようでおかしい(笑)。
 
唯物論的、というより、俗物的と言うべきでしょう。
 一般的にはそのような表現をするのでしょうが、記事のテーマの関係上、HS的に唯物論的だとか、この世的というような言い方をします。


*支配欲
また大川隆法は、自己を発展させる方法として自己変革の必要性を説いているが、これは香山リカが指摘しているスピリチュアルにハマる人の特徴に合致している。氏によると、スピリチュアルにハマる人は、自分が変わりさえすればすべてがうまく行くと考える人が多く、自分の抱えている問題について、歴史的社会的な視点から考察し、対策を講じようという意識が希薄であるらしい。(参考『スピリチュアルにハマる人、ハマらない人』香山リカ著)
 
自分が変わらなければと思うのは、よくあることで自然ですが、「自分が変わりさえすればすべてがうまく行く」と言うのは思い込みであり、さらに、これらを他者にだけ当てはめて言うのは、まさに、楽山やシャロームなどの易坊類がやっていることです。
 シャローム氏が、st氏の行き過ぎた行為を注意したことはあるでしょうが、「自分が変わりさえすればすべてがうまく行く」というのを、「他者にだけ当てはめて言う」というのは嘘です。
 シャローム氏は、st氏に批判的なときであっても、自分は対応をあやまったとか何とか自責の念を持つ人であり、他者だけが悪いなどとは言わない人です。ですから、「他者にだけ当てはめて~」というのは、例のごとく、st氏の投影でしょう。
 率直に申し上げて、私は、st氏ほど、支配欲が強く、要求が多い人は見たことはありません。たとえば、st氏は、シャローム氏の言説を批判するだけでなく、シャローム氏には何も書いてほしくない、書いてはいけない、ブログも閉じるべきだということまで要求していました。
 また、誰もシャロームと話してはいけないとして、シャローム氏が他ブログを訪問し談笑しているところに割り込んで邪魔をしていました。私がシャローム氏と話している時は、シャロームとは話してはいけない、話すなら批判するとして、命令かつ脅しをかけてきました。
 普通なら、人と揉めたとしても、「私は、彼の意見には賛成しない」とか、「私は、彼とは話したくない」という程度で留まるものです。でもst氏は「私は彼の意見には賛成しない。彼はもう何も発言してはいけない」とか、「私は彼とは話したくない。だから他の者も彼と話してはいけない」という極端にはしり、他を巻き込もうとします。
 st氏は、あいつがすべて悪い、あいつさえ排除できれば、すべてよくなるのに…という発想をする人です。 


*常識外れ
HSは常識に欠けるだとか、社会性が欠如しているという批判はよく聞くし、信者でも世間解について云々することは珍しいことではないけれども、これには発展、自己変革、自己責任など、HSの教えに社会性が欠けていることと関係していることは否めないだろう。これらは一面の真理を語っていないこともないだろうが、問題の原因をなんでも個人に帰すればよいわけではないのだ。
 
カルトは、常識に欠けてゆきます。珍妙な人間離れした妄想信条を持つと、それが、常識を駆逐してゆくからです。鋭敏になるのでも、能力を得るのでもなく、欠ける方向、鈍麻する方向に、しかも、固定してゆくのでしょう。まさに、楽山に、それを見ています。
 常識外れといえば、st氏のストーカー行為が、まさにそれでしょう。st氏が、「カルトは、常識に欠けてゆきます」といっても、投影、自己紹介、ブーメランにしかならないです。


*ブーメラン
そういえば自分が会員だったころ、社会制度について意見を言ったら、先輩会員から「制度を変えたって心が変わらなければ何も変わらない」と言われて、ハッとさせられ感動したことがあったが、このことからすると当時の自分はまさに香山リカが言うところのスピリチュアルにハマる人だったのだろうと思う。とほほ。
 
今は、いや、ずっと、自己愛に嵌って、嘘、詭弁、印象操作、刷り込み、などによって、嵌らせることと保身に懸命なようです。
 
もう一度、言いますが、人間は、ただ、神のもとにある自覚をもって、正直に祈る暮らしの中で、神に対して劣る者としての謙虚さ、すなわち敬虔を学ぶのです。
 
これまでの楽山の記事の、詭弁と嘘の流れから、楽山には、この正直さが、ありません。
 
楽山が、学習障害の人であるなら、かつ、それを自覚しているなら、それなりに生きる道はあるはずですが、楽山は、それを探し求めるのではなく、どこまでも、宗教家気取り、批評家気取り、読書家気取りに、しがみついて、どんどん、いちばん向かない方向を選んで、背伸びばかりして、自己愛性の害毒をまき散らして、同情の余地も、自立の余地も、自分で潰(つぶ)しているのです。
 
つづく。
 st氏の批判は、だいたいが投影、自己紹介、ブーメラン、鏡にうつった自分ということになっていますが、ここも同様です。
 論点はいろいろ提示されていますが、一番はじめに挙げられている「自己愛」についていえば、st氏はまさに自己愛の塊です。
 たとえば、st氏は、カルトを批判するといいますが、多くの被害者を出しているカルト教団には無関心です。ですが自分に苦言を呈した人に対しては、カルトのレッテルを貼り、何年でも粘着し、ストーカーになります。自己愛が強すぎて、他から意見されると、逆ギレ、逆恨みするのでしょう。
 ただし、st氏は、苦言を呈した人であれば、誰に対しても粘着ストーカーになるわけではありません。ヨシュア氏のようにst氏の私生活をあげつらい、罵詈雑言を浴びせてくる人に対しては、早々に退却します。また易坊氏のように、st氏のブログに乗り込んできて、理詰めで、徹底的に問い詰める人にも粘着批判はしません。時々、恨み言を述べるくらいです。
 粘着ストーカーになるのは、シャローム氏、楽山のように、罵詈雑言を吐くことはなく、執拗に問い詰めてくることもなく、批判しやすい人に対してだけです。ようは、st氏は粘着ストーカーになるときは、自分が傷つくことはない人を選んでいる。
 st氏は、世のため、人のために、カルトであるシャロームや楽山を批判しているかのようなことを言いますが、実際には何のことはない、上に示したように、自分の恨みつらみを、どんなに酷いことを言っても返り討ちに遭う心配はない相手にぶつけてるだけのことです。

 次に、二番目に書いてある「嘘」について書くと、以前のst氏は、シャロームにはひどい目に遭わされたから、自分のような被害者が出ないように、シャロームを批判し、注意喚起すると繰り返していました。
 私はこれをそのまま信じて同情したのですが、その後、シャローム氏にされた酷いこととは何であるか、st氏に尋ねると何ら具体的な答えは返ってこなかったのでした。ウン千万の献金詐欺にあって老後の生活資金を奪われたとか、自分を拝まないと地獄に堕ちると洗脳されたとか、そういうカルトにありがちな事件など、一つもなかったのです。確認できたのは、シャローム氏との間に信仰において意見の相違があったことや、自身の至らぬところについて苦言を呈されたということくらい。
 ようは、シャロームに酷いことをされた、シャロームはカルトだというのは、st氏の主観ではともかくとして、客観的にみれば、シャローム氏をおとしめ、自分が被害者になりすますための嘘であり、印象操作にすぎなかったということです。
 最近のst氏は、もっぱら楽山に粘着し、楽山には酷い目に遭わされたというようなことを書いているようで、LEO氏はそれを真に受けて、私と同じ轍を踏み、騙されていますが、st氏はいい加減にそういう嘘は止めた方がいいです。
 あとは、「学習障害」と書いてあるのを見て思い出しましたが、st氏はたしか読書障害を告白していたことがあったかと思います。有り得ないような読解ミスをしていることでツッコミを受けた後で、そういうことを言っていたのでした。ようは、「楽山が、学習障害の人であるなら~」というのも、ご自身のことを楽山に映して言っているのでしょう。
 論点はこの他にも挙げられていますが、全部について書くときりがないので、とりあえず、ここで筆をおくことにします。
 

*参考
 st氏と私の過去については、この辺りにまとめてあります。
 興味のある方は、ご覧ください。



*つづく
 次の記事につづきます。