*つづき
今度はこちらの記事について、感想を書きます。
前記事と同じく、文字色は、次のように設定してます。
・青(引用された楽山の文章)
・赤(st氏の文章)
・黒(今回の楽山の文章)
あとは、引用文のうち、自分の感想と関連している箇所には、下線を引いておきました。その方が見やすいと思うので。
st氏の批判対象になっている記事は、こちらです。↓
・『ゴータマ・ブッダ 釈尊の生涯 原始仏教1/中村元選集 第11巻』- 楽山日記(LD)
それでは、いよいよ本題にはいります。
*自己顕示欲
投稿の順序が前後していると思いますが、楽山批判の下書きが、今の時点で、一つ残っているので、アップしておきます。それぞれ、相手の言葉を引用しての逐一批判なので、順序が前後しても焦点がズレるという影響はないと思いますが、ご意見など、ありましたら、コメントください。キリスト信仰について、本質を求めずに、ゴシップ的なことばかり熱心で、軽く見て、どうでもよいものとして、宗教をおとぎ話にしてしまいたい楽山は、仏教も同じように、オモチャにしたいようです。自分だけが客観的に分かっている賢者という自己顕示欲のためでしょう。
ところで、「戸田聡」というのは、st氏の本名でしょうか。もしそうであれば、有名人でも商売人でもないにもかかわらず、ブログをするのに実名を出すほど自己顕示欲の強い人が、匿名ブロガーに対して自己顕示欲をうんぬんするのはおかしなことです。結局ここでも、st氏は自分の心を投影し、楽山は自己顕示欲が強いと思い込んでいるのでしょう。
また楽山の記事は、基本的には、「自分はこんな新発見をした。こんな新発見をした自分はすごい」というものではありません。「この本を読んだら、こんなことが書いてあって驚いた。はじめて知った。感動した」というようなものです。一定の知識がある人からは、「楽山はそんなことも知らなかったのか」と笑われるだろうことを覚悟して書いているのです。
ですから、st氏は、楽山は賢者のつもりになっていると想像しているのであれば的外れであるし、これもまた自身の投影にすぎません。st氏は自分だけが真の信仰を分かっているという立場から、シャローム氏、楽山その他の人々を批判しているので、相手もそのようにしか見えないのでしょう。
*投影尽くし
>本書では、神格化された信仰上の釈尊ではなく、実際の釈尊はどのような人物であり、どのような生涯をおくったかを明らかにする試みがなされている。たとえば初期の仏典では、弟子でさえも釈尊のことを、「シャカ」「ゴータマ」などと呼び捨てであったのが、時代が下がるにつれて尊称がつけられ神格化されて行く様子を明らかにしたり、梵天勧請のような伝説はなぜ生まれたか、現実はどうだったかなどについて語られている。また当時の釈尊は剃髪していただろうから、事実かどうかという視点から見た場合は、仏像に髪があるのは間違いだと見もふたもないことも書いている。<だから、楽山は、先ず、史実にこだわります。キリスト信仰の心ではなく、キリストや神についての史実から、いちゃもんをつけてきたように、いちゃもん屋の楽山は、知識豊かな博識と言われたいのでしょう。教えそのものよりも、表面に浮いてきて掬いやすい灰汁のような知識を求めて、宗教を、安く手に入る惣菜として料理したいのでしょう。
st氏は、相手の内面を悪く想像した上で、批判をくわえるということをよくやりますが、ここでもそうなってます。そして、こういう場合は、概して、無意識のうちに、自己が投影される結果になるものです。「知識豊かな博識と言われたいのでしょう」というのは、結局、st氏自身の願望なのでしょう。
新情報に対して、「そんなの、教えられなくても、前から知ってるよ」というなら知識人ぶってると言えるでしょうが、「本を読んだら、こんなこと書いてた。すげー」といって今まで無知だったことをさらけだしているのに、知識人ぶってると受け取るのは、本当にどうかしてます。
st氏は、自分が知らないことを話す人に対して、すごく腹を立て、やっかむことが多いです。たとえば、シャローム氏が、何かの専門用語を使うと、新知識を自慢しているとか何とかいってケチをつけていました。ここでもそういうパターンになっています。こういうやっかみは、みっともないことであるし、止めた方がいいです。
*信仰と歓喜
*信仰と歓喜
>こういう試みは、信仰上のお釈迦様を大事にしたい人からしたら愉快ではないかもしれないが、自分は信仰上のお釈迦様のみならず、実際のお釈迦様はどうであったかにも関心があるので非常にありがたいし、わくわくするほど面白く読めてよい。大いに歓迎する。<楽山は、いったい、どういう立場で言っているのでしょう。知りもしない信仰の教祖について、大いに歓迎する、などと言えるのは、いったい、どういう尊大さなのでしょう。わくわくするほど面白がるのが信仰だとでも思っているのでしょうか。真面目に救いを求めている人々への侮辱だと分からないのでしょうか。仏教についても、また、既に、キリスト教についても、楽山の自己愛による自己中の身勝手と傲慢は、個人の安易な知識欲と興味の範囲でしかないのに、そこを超えて公開文書で語ってしまうのが、楽山の特徴であり、宗教の知識として受け取れる質を持っていません。しかも、人の意見を全く聞かないのだから、自己愛のインテリ気取りの独り有頂天ほど迷惑なものはありません。
私が言っているのは、「信仰の教祖」を歓迎するというのでなく、仏陀の実像について書いた本を歓迎する…ぜひ読みたい、学びたいということです。大乗非仏説というものがあるくらいなのですから、それなら釈迦の直説とはどんなものだったのか、その実像はいかなるものだったのかという関心を抱くのは当然でしょう。
また、わくわくするほど面白いというのは、面白おかしくて笑えるというのではなく、嬉しい喜ばしい楽しいというニュアンスのつもりです。ヒヤヒヤヒヤ…とバカにして笑うのではなく、おぉっと感動するということです。st氏は、神と出会ったり、真理を知ったり、救いを実感したときに、喜んだり、楽しくなったり、体が熱くなるほど興奮したりしないのでしょうか。私はそういうときは、愉快になり、快活になりますけど。
「面白い」というと、面白おかしいという意味でしか受け取らず、「ドストエフスキーは面白い」「古事記は面白い」「仏典は面白い」「聖書は面白い」などというと、怒る人がいますし、st氏もそのタイプのようですが、私は「面白い」の意味は、面白おかしいに限定されるものではなく、もっと広い意味があるし、名著古典聖典を面白いと表現することは必ずしも間違ったことではなかろうと思います。
私の文章表現が拙いせいもあるでしょうけれども、st氏の解釈はいつも、意地が悪すぎます。人の文章を曲解、歪曲、捏造してでも、悪く解釈し、ケチをつけてばかりです。もうちょっとでも、公平に見ることを心掛けてもらえれば…と思います。
ところで、上馬キリスト教会は、次のツイートをしています。
「面白い」というと、面白おかしいという意味でしか受け取らず、「ドストエフスキーは面白い」「古事記は面白い」「仏典は面白い」「聖書は面白い」などというと、怒る人がいますし、st氏もそのタイプのようですが、私は「面白い」の意味は、面白おかしいに限定されるものではなく、もっと広い意味があるし、名著古典聖典を面白いと表現することは必ずしも間違ったことではなかろうと思います。
私の文章表現が拙いせいもあるでしょうけれども、st氏の解釈はいつも、意地が悪すぎます。人の文章を曲解、歪曲、捏造してでも、悪く解釈し、ケチをつけてばかりです。もうちょっとでも、公平に見ることを心掛けてもらえれば…と思います。
ところで、上馬キリスト教会は、次のツイートをしています。
https://twitter.com/kamiumach/status/1310829477128093696
https://twitter.com/kamiumach/status/1310717245882941440
https://twitter.com/kamiumach/status/1312392319836979200
私はこのふざけ方には驚きましたが、教会の意図、努力は察することはできますし、信仰の表現はさまざまあるのだと思います。
st氏は、自己の信仰観を絶対化し、それに合わないものは、冒涜だ、侮辱だ、カルトだと決めつけて糾弾しますが、これは魔女狩り、異端審問、異教徒迫害などの悲劇を招く考え方です。よくよく注意した方がいいと思います。
*視点のちがい
*視点のちがい
>とはいえ、こういう自分もかつてはこの種の試みは大嫌いだった。仏陀はこの世だけでなく、この世を超えた世界をも知り尽くしている故に仏陀なのであって、仏陀の超人的、超自然的な側面を除外して見ようとするならその真の姿は決してつかみ得ぬだろうし、それは仏陀を矮小化し、自分の解釈可能な範囲内に押し込めようとする甚だしく不遜で愚かな行為であり、無意味なことだと考えていたのだ。<楽山は、あるときは、霊が分かるっぽいと自分で思って、超常の世界を好むくせに、別のときには、神やキリストの実在を問うのと同じように、幼稚な疑問で否定しにかかる、という、興味のおもむくままに、宗教を茶化してきただけなのです。
私は、ものごとを判断するときには、一つの視点だけでなく、できるだけ複数の視点から、多角的に観察しようと心掛けています。たとえば、一つの宗教について、過去と現在の自分の心の反応、宗教的見地からはどうか、事実関係はどうなっているか、論理的結論はどうか、他者はどのような見解を持っているか、歴史的評価はどうか…などなど、さまざまな角度から見ようとします。
この場合、私は定位置にいて視点だけを動かしますが、st氏はこの視点の移動とともに私も動いていると見るから、私がコロコロ立場を変えていると勘違いするのです。
そういえば、ヤフーブログ時代に、シャローム氏が小室直樹の本の要約を書いたら、st氏はそれをシャローム氏の意見だと思い込んで批判しているのを見た記憶があります。私はこのときに、st氏は、語り手の立場、視点などが分からない人だと思いましたが、今回もまた同じ感想を持った次第です。
*過去と現在
>でも近頃は、霊能、神通力、奇跡…という超自然的なことは、前ほどは信じなくなったせいか、そういう超自然的なことから離れてものごとを見、判断することにさほどの抵抗は感じなくなった。<楽山の言う近頃というのは、どれほどのタイムスケールなのでしょう。仏様の声が分かるっぽい発言は、昔のことであっても、それをブログで語っているわけです。祈りや聖句などを書いてクリスチャン芝居をして記事に書いたのは、何年も前というわけではないでしょう。自分の興味によって、ころころ、立場を変えているだけという節操のなさは、宗教を語る者として、どこにも通用しないです。
概して、人の心は、現在過去未来で断絶しているのではなく、連続しているものでしょう。だからそこに書いてあるのは「超自然的なことは、〝まったく〟信じなくなった」ではなくて、「超自然的なことは、〝前ほどは〟信じなくなった」ということです。
また、「前ほどは信じなくなった」といっても、それはあくまで自分の中の基準での話であって、世間一般の人々からみたら、今の自分であっても相当に信心深い方になるかとは思います。
st氏は、「前ほどは信じなくなった」という程度問題の話を、信じるか信じないかという、あれかこれかの話だと解釈しているので、私の立場が180度くらい大きくコロコロ変わっていると勘違いするのでしょう。
*二つの方法
*二つの方法
>信仰心旺盛だった頃は、信仰がなければ真実は分からぬと考えていたけれども、近頃は信仰が強すぎれば現実が分からなくなると考えるようになったのである。<楽山に信仰心旺盛だったことなど無いと思います。それは、たぶん、超常に浮かれていた頃のことを、そう言っているのでしょう。楽山にとって、宗教に気分をよくしているときは、超常へ興味が向かうときで、宗教に悪口を言うときは、史実にこだわったり、幼稚な疑問だらけになるようです。そんなに前のことではありません。楽山は、自己愛のために、現実が分からなくなっており、好き勝手に、こだわり方を変えて、仮想現実のような何でもありになることがありますが、楽山の半端な理路では、現実問題に答えることなど出来るはずもありません。奇跡の見分け方についての記事とか、妙に浮かれた言葉を並べるとか、不安定な精神状態が、楽山の書くものに表れてきました。
HSでは、信仰を続けることが第一目的になっているので、その邪魔になる現実は無視したり、霊的な理由付けによって無効化することがよくあります。上の文章はそういうことを念頭においたものです。
また、キリスト教関連の本で、聖書の読み方には大きく分けて二種あり、一つは宗教的直観によって読むことで、もう一つは聖書研究の成果に基づいて読むことであり、どちらの読み方も大事だという話を読んだことがあります。
私の宗教への向き合い方は、この影響を受けています。宗教的直観に頼るばかりで史実を無視するのではなく、明らかにされた史実だけを見てそれ以外は意味のない妄想として否定するのでもないということです。
そういえば以前、某掲示板のキリスト教スレで議論したときに、相手方から、リベラルと評されたことがありました。この指摘の通り、私は自由主義神学に近いところがあるようです。
あとは、奇跡の見分け方の記事というのは、これのことでしょうか。
ドーキンスは無神論者として有名な人ですが、『神は妄想である』は名著だと思います。ドーキンスは無神論に入れ込み過ぎて、まるで無神論信仰のようになっていると感じられるところはあるし、不可知論に対する批判は極端に過ぎるところもあるとは思いますが、それでも『神は妄想である』は著者の情熱に満ち溢れていて、迂闊に触れれば手に火傷をしかねないほど、熱く、すごい本ではあります。
*信仰は捨てよ
>現実をありのままに見ようとするなら、信仰は捨てよとまでは言わないが、ほどほどにしといた方がよかろうと…。本来、信仰は尊いことだろうけれども、それが思い込み、決めつけ、偏見のようになっている場合は、信仰が目のウロコになってないかどうか、注意が必要なんだろうと思う次第である。<またしても、おかしな思想背景から、ほどほどにしといたほうがよいなどと、信仰を侮辱しています。信仰は現実において生きるためにあります。楽山にとって、信仰は非現実、という、とても安っぽい先入観が働いているわけで、そのことこそが、楽山の、信仰を語ることにおける欠格を表しているのです。「捨てよとまでは言わないが、ほどほどにしといたほうがよかろう」信仰?など、むしろ、持つ価値など全くない信仰?であり、真の信仰に救われた人々に対する最大の侮辱です。信仰の奥深さを全く知らない者の著しい誹謗中傷であり、単純な無知が、傲慢による無恥を伴うと、こうなるという例です。
「信仰は捨てよ」というのは、仏典にある有名な言葉です。また仏陀は無執着を説き、筏のたとえによれば、仏法にさえも執着してはならぬとしたといいます。私の言葉はこれらを下敷きにしています。
「ほどほど」というのは、「弦は、きつく張り過ぎれば切れてしまうし、緩くては音が出ない、ほどほどがよい。悟りもこれと同じで、苦行からも、怠惰な生活からも離れた、その間にある」という話を念頭においています。信仰もこれと同じで、本来は尊いものであっても、極端に傾けば、決めつけ、偏見、教条主義にハマり込むこともあるから、そこは警戒すべきだということです。
善悪は絶対的なものであるという考え方すれば、このような思考はおかしいと感じられるかもしれませんが、善悪は相対的なものであるという考え方からすれば、たとえ本来、善である信仰であっても、時、場所、相手、程度をまちがえれば悪に転化するというのは、特におかしくはなかろうと思います。
st氏は、これらの背景に気づかないままに「おかしな思想背景」と評していますが、これこそ仏教の教えを侮辱するものです。
ちなみに、HSではしばらく前から、次のような信仰論が説かれているといいます。私は現物はまだ確認できてませんが、複数の信者たちが、ここに書かれた教えに沿った発言をしているので、おそらく事実なのでしょう。
傍から見れば、何も考えず、何も判断せず、大川隆法を信じて、その言葉に従いなさい、というのは馬鹿げた話に思えるかもしれません。でも、HSによって救われたという体験を持ち、それによってHSこそ真の信仰だと信じている信者は、これを真に受けてしまうこともあるのです。
上の言は、こういうHSの信仰論や、その実態をも考えた上でのことです。だから、この宗教で救われた、真の信仰を得たと思った時であっても、冷静な自分を保つべきだというメッセージを込めてあります。
st氏は、楽山憎しの思いが強すぎて、楽山の文章を素直に読むことが出来なくなっており、その字面だけをみて、その真意も、背景事情も察せず、関心も持たず、やみくもに否定し、ひたすらに悪口雑言を繰り返すばかりになっています。どうかもう少しだけでも冷静になって欲しいと思います。
*目的
「st、楽山 問題を振り返る」2019-12-20楽山日記(a)( 楽山日記(DL)とは別のブログです)>*実際のところちなみに楽山日記とは何なのかと言えば、実際のところは、平凡人が平凡なことをつづっているだけのブログだ。閲覧者はわずかしかいない。yahooブログ時代のことではあるが、楽山日記は、stさんから沢山批判されても、閲覧者は増えなかったし、stブログからの流入も確認できなかった。stさんがコメ欄にきて連投し、議論をはじめたときは、閲覧者は増えるよりも、むしろ減っていた。特に女性の閲覧者は、普段は全閲覧者の三、四割いたが、ほとんどゼロになってた。<自分が何をしているか、まだ分からないようですね。反信仰として批判するということは、楽山ブログの閲覧者ゼロを目指すということです。誰にも、楽山には、関わってほしくないということです。
st氏は他人をコントロールしたがり過ぎだと思います。〈自分は楽山とは関わらない、そのブログも見ない〉というだけではすまず、〈誰も楽山と関わってはいけない、そのブログも見てほしくない〉という風に、他人も自分に同調することを求めます。
シャローム氏に対しても似たような感じでした。シャロームと話をする人がいなくなり、そのブログも無くなるまで批判を続けるとか…。どうして、こうなってしまうのでしょう。
ところで、シャローム氏の次は、楽山が標的になったようですが、楽山はいったい何人目の標的なのでしょうか? 楽山がいなくなったら、次は誰を標的にするのでしょうか?
私は次の犠牲者は出したくないので、なるだけブログは続けようと思います。私がブログを続けていれば、その分だけ、st氏の攻撃は私に集中し、他の人に向けられる可能性は減るでしょうから。
また仮に、私が記事更新しなくなったとしても、st関連の記事は残しておきます。次の犠牲者が出たとしても、これによってst氏の人となりを知れば、何を言われたところで気にする必要はないことが分かると思うので。
*切っ掛け
>知名度の高い人気ブログであれば、批判、炎上によってアクセス殺到ということもあるかもしれないが、楽山日記のような閑散ブログの場合は、もとから興味を持っている人は稀であるし、そういう楽山の批判が書かれたり、コメ欄炎上したところで、誰も読まないということなのだろう。<楽山の記事やコメントが、読む価値がなく、読んでも嘘と間違いだらけで、むしろ害毒のほうが大きいと判断して、批判しています。信仰を知っているキリスト者にとっては、楽山は、嘘を宣伝しているわけだから、甚だ迷惑で、しばしば、書くのをやめるようにも言ってきたのです。
いやいや、それは後付けの理屈にすぎないでしょう。
実際には、st氏は、当初、私の記事をほめてました。たとえばこんな風に。(コメント中の「自由」とは楽山のことです)
でも私が、st氏のシャローム氏に対するストーカー行為を注意しはじめると、だんだんと私に対して批判的になり、最終的には敵認定し、私の書くことは何でもかんでも否定するようになったのです。
ようは、st氏は自分のストーカー行為を注意されたことを逆恨みして、楽山攻撃をはじめたにすぎず、信仰うんぬんというのはそれを正当化するための後付けの理屈にすぎないということです。st氏は、自分の恨みつらみをはらすために、キリスト教を利用しているのです。
「嘘と間違いだらけ」というのは、この記事を読んでいる読者には、例のごとく、st氏が自分の姿を、楽山に投影しているだけだと理解していただけると思います。
*嘘
>また仮にわずかながらも楽山日記を愛読してくれる人がいたとしても、そういう人はstさんとは考えは合わないだろうから、stさんの楽山批判を読んでもそれに影響される人はいないだろう。<楽山と一蓮托生のお仲間たちにとっては、自主性も創造性もなく執念深さだけの根性にマインドコントロールされているわけだから、私とは考えが合わないのが当たり前ということです。私は、私と同じ考えになってくれとか、私と一緒に批判してくれとか、頼むために批判記事を書いているわけではありません。私の務めとして、楽山やシャロームなどの易坊類が邪悪だという情報をできるだけ広めるために書いています。それに、コメントを読む人は少ないでしょうし、批判の本体は、私のブログの記事であります。
いやいや、先にも書いた通り、st氏は、他も自分に同調することを求める人でしょう。私がシャローム氏と話をしていた時に、シャロームと話してはいけない、話すなら、楽山も批判対象にするといって自分に同調するように強要したでしょう。
あとは、マリア氏は、st氏が自分に同調しない者を攻撃した事例を挙げてました。
あとは、マリア氏は、st氏が自分に同調しない者を攻撃した事例を挙げてました。
シャロームさんを守ろうとしたクリスチャンにも噛みつきにいき、火の粉がかかっていってました。それで心苦しくてコメント欄をとじたりしてて、シャロームさんは、最終的にサイトを閉じたものと推測しました。守ろうとした人にまで噛みつきサイトを荒らす、それは異常行動です。普通の神経を持つ人はターゲットは一人ですし、誰彼かまわず見境なく敵とみなして噛みつくのは病気ですね。
ちなみに、私がアメブロではなく、ライブドアブログに書いているのは、これが理由でもあります。アメブロでは横のつながりができやすいようなので、私に話しかけてくる人や、義侠心から擁護発言をする人が出てくるかもしれないし、st氏がそういう人に噛みつかないとも限らないわけで、それなら横のつながりが薄いライブドアブログの方で書いた方がいいだろうという判断です。
ところで、st氏の他者批判は、何度もいっているようにブーメランばかりですが、「執念深さだけの根性にマインドコントロールされている」というのもそれです。
st氏は、シャローム氏に対して何年にもわたって粘着していたわけであるし、楽山に対しても同じことをしようとしているでしょう。しかも自分に対する批判に反論するというだけでなく、それとはまったく無関係の記事についても、シャローム氏や楽山が書いたものであれば、すべてチェックして、何でもケチをつけるというやり方です。執念深い云々というのは、誰よりもst氏にこそ当てはまります。
*人恋しい
>ようはstさんが、楽山がああだこうだといくら書いても、現実は変わらないということ。おそらくこれは、shalomさん、マリアさんについても同じだ。stさんがマリア批判をしたところで、それ以降もマリアさんとこは人気ブログであり続けてるし、shalom批判をしたところでshalomさんが皆から糾弾されるということもないし、shalomとの会話を拒否する人もいないだろう。<ネットでは、興味本位のブログが多いですから、だいたい、批判記事というのは、嫌われる傾向であることも知っています。相手が変わるかどうかではなく、間違っているということを、書けるのに書かないでいることは反信仰を放置したという罪そして反信仰になるので、批判を書ける人、あるいは、書こうという意志のある人が書くべきなのです。だから、訪問者数に依存したブログを書こうとして、受けるための興味本位の書き方を工夫したり、他者に迎合するようになるなら、信仰の記事を真剣に正直に書くという節操にも反してくるのでしょう。嫌われ、読まれなくなっても、言いたいこと、大事だと思うことを最優先に書くことにしています。楽山もシャロームも、お仲間の数や、訪問者数のことを、おとしめる目的で書いてきますが、それは、信仰者としての節操も弁えも使命感も持っていない、例えば、流行るかどうかを判断の基準としているような香具師(やし)か的屋(てきや)みたいな下劣な姿勢と体質を表しているということです。
st氏は、人から嫌われても、訪問者数が少なくても構わないかのようなことを書いていますけれども、実際の行動はそれとはちがいますね。
ヤフーブログ時代、st氏は、他ブログの記事に「ナイス」を押しまくっていたでしょう。このことを、マリア氏から、自ブログのアクセス稼ぎのため、ナイスのお礼返しを期待してのことだと指摘されてた。
st氏のアメブロを見た限りでは、今も同じようなことをやっているみたいですね。相互フォローを期待して、フォローしまくったり、いいねをしまくっているのではありませんか。
また、st氏はスルーされるとすごく怒ります。自分の批判にこたえないのはいけないとか何とか。もう二度と口をきいてもらえないような酷い悪口を言っておきながら、相手が自分と話してくれなくなると怒るのです。何をいっても不感不能はけしからんとか何とか言って。
今はどうか知りませんが、ヤフーブログ時代は、心身の不調をよく訴えていました。まるで死期が迫っているかのような書きぶりでした。でも今もブログを続けていることからすると、実際はそこまで状態が悪いわけではなく、誰かにかまってほしくて大袈裟なことをいっていただけなのでしょう。
こういう過去からすると、人から嫌われてもいいから、自分の思いを正直に書くというのは、ただの強がりとしか思えません。本音は、〈人恋しくてたまらない。自分の心を正直にさらけ出し、ありのままの自分を理解してもらった上で、自分の欠点も含めてすべてを受け入れてほしい。そういう人と出会いたい〉ということでしょう。そしてその期待が満たされないと、逆ギレして、ストーカー化する。自分を受け入れてほしいのに受け入れてくれなかった人、自分が甘えたかったときに、甘えさせてくれなかった人を逆恨みして、復讐しようとする。
これは見当外れの推測にすぎないかもしれませんが、いいね、フォローをしまくり、相手に酷いことを言っておきながらその相手からの返事を欲しがったり、拒絶されても拒絶されても執拗に絡んでいったり、他から酷いことをされただとか、今にも死にそうなほどに苦しいと泣き言を繰り返したり、さらにはシャローム氏や楽山など、一時は親しくしていた相手に対して、苦言を呈されて以降、一転して、悪口を言いふらすようになったこと等からすれば、当たらずも遠からず…といったところではないかと思います。
こんなことを、ずけずけ指摘するのは酷かとは思いましたが、人恋しがっている、人に甘えたがっているなどの結論だけを書くと、オウム返しが好きなst氏のことですから「それは楽山の投影だ」と言いつのるだろうことを見越して、その根拠となる事例をいろいろと並べてみた次第です。あしからず。
こんなことを、ずけずけ指摘するのは酷かとは思いましたが、人恋しがっている、人に甘えたがっているなどの結論だけを書くと、オウム返しが好きなst氏のことですから「それは楽山の投影だ」と言いつのるだろうことを見越して、その根拠となる事例をいろいろと並べてみた次第です。あしからず。
*類似
>私から見た現実はこのようなものではある。stさんは、マリアさんのブログでは下のような決意表明を書いていたし、命がけでカルトと戦っているつもりかもしれないけど、そろそろ現実に気づいてもいい頃ではないかと思う。<楽山から見た現実は、バーチャルであることがよく分かる文章です。核心に入ってゆけないために、分かりやすい指標に頼って、批判しても無駄だと、おとしめてきます。無駄でよいのです。真善美から程遠く、高慢から礼節も弁えず、だらだらボンヤリ言語を垂れ流し、社会悪につながりそうな自己中の邪悪に対して、できることをしているだけですから。
例によって、ここもブーメランになってます。もういちいち細かく指摘するのも面倒だけども、一つだけ触れておけば、何人もの人たちに、ストーカー行為は止めるように注意されても、自分はあくまで正しいと強情を張ってるst氏が、他の人のことを自己中というのは、ちゃんちゃらおかしいことです。一番の自己中は、ご自分でしょう。
またHSでは、退会者や批判者のことを、「神(大川隆法)を信じず、その言葉に耳を貸さず、エゴを優先する自己中だ」という風に非難しています。ようするに、自分らの言葉に従わないのは、高慢、エゴイスト、自己中だという考え方です。
こういうところは、st氏とHSは共通しているし、それだからこそ、HS信者であるLEO氏は、st氏を高評価するのでしょう。
st氏は、シャローム氏をカルト呼ばわりしていましたが、なんのことはない、自分こそがカルトHSと同じような思考回路を持っていたということです。
*全体の感想
感想はおよそ三点あります。
まず一つは、st氏は相変わらず、誤読、歪曲、悪口、自己投影ばかりだということです。本人はキリスト者の立場から、悪と戦っているつもりなのかもしれませんが、傍から見れば、鏡にうつった自分に対して、悪口雑言を繰り返しているだけです。こんなことに時間を浪費するなんて気の毒に思えます。
二つ目は、st氏は、HS信者と同様に、思い込みが激しいということです。すべてのHS信者とはいいませんが、HS信者は、何でも自己の信仰に合うように改変する人が多いです。
たとえば、アンチ発言をこんな風が変換するのは、しょっちゅうです。
「大川隆法が神だとは信じない」→「神は信じない」
「HSの信仰はおかしい」→「すべての信仰はおかしい」
信者は、アンチは神を疑い、信仰を否定すると思い込んでいるので、アンチがORとHSに限定して話しているにも関わず、一般の信仰、神までも否定していると解釈してしまうのでしょう。
st氏もこれと同じで、シャロームも楽山もカルトだ、カルトはこういう邪悪な心を持っているものだと思い込んでいるので、現実のシャローム氏や楽山が何を言ったとしても、それをそのまま理解することはできず、自分の思い込みに合致するように変形しないではいられなくなっているのでしょう。
余談ながら、st氏と軽い挨拶を交わす人はいても、議論する人がいなくなったのはこれが一因だろうと思います。何を言っても、st氏の思い込みによって歪曲解釈されるのでは、どんなに気が長くて温厚な人であっても、いちいち相手にするのもバカバカしくなるでしょうから。
三つ目は、st氏とHS信者は、そっくりだということを再確認できたということです。このことは以前から気づいてはいたのですが、今回、HS信者のLEO氏がst氏を高評価したことによって、私から見ただけでなく、HS側からみても、HSとst氏には共通点が多く、近い立場にあるように見えることが分かったのはよかったです。
*騙されたこと
三つ目は、st氏とHS信者は、そっくりだということを再確認できたということです。このことは以前から気づいてはいたのですが、今回、HS信者のLEO氏がst氏を高評価したことによって、私から見ただけでなく、HS側からみても、HSとst氏には共通点が多く、近い立場にあるように見えることが分かったのはよかったです。
*騙されたこと
最後に、自分の失敗について告白しておきたいと思います。何の失敗かというと、st氏を見誤ったことです。
恥ずかしながら、私は当初、st氏を立派な人だと思っていました。それはなぜかというと、st氏は、次のような話をしていたからです。
- 人には神のことは分からない
- 訂正不能はいけない
- 不感不能はいけない
- 人の情緒は大切にしよう
- 教条主義ではいけない
- 正直であろう
- 自分にできるだけのことはします
私は、これを次のように解釈した上で、こういう信条を持っているst氏は、立派な人だろうと解釈したわけです。
- 神のことは分からないから、自分の信仰は他人に押し付けない
- 人の意見には謙虚に耳を傾け、自分の過ちは素直に認め、反省したい
- 感情の無いロボット人間にならないようにしよう
- 喜怒哀楽など、人間らしい情緒は大切にしたい
- 教条主義に陥り、人を決めつけ、裁かないようにしよう
- 偽善はよくない、自分の心に正直でいよう
- 世のため、人のため、自分のできるだけのことはしたい
でも、st氏の実際の言動を見ると、このようなものでした。
- 自分だけは神の御心、真なる信仰は分かっているとして、自分の信仰観を他人に押し付ける
- 何人もの人たちから、ストーカー行為を注意されても、一切耳を貸さない。自分は正しいと言い張り、絶対に、非は認めない
- ときどき、無感情で、台詞棒読みみたいな状態になっていることがある
- 苦、悲、怒などの感情は表出するが、喜、楽などの明るい感情表現は徹底的に嫌っている。シャローム氏が、サイクリングして楽しかったことを書いただけで激怒していたし、マリア氏が歓喜と共に神を賛美するのも批判していた
- 自分の信仰観に凝り固まっていて、それによって人を裁くことに躊躇しない
- 自分に正直になると称して、自分の悪感情をぶちまけ、他人の悪口を言いまくる
- 悪と認定した相手を、できるかぎりストーカー批判することに力を尽くしている
巷では、「人を判断するには、その言葉ではなく、行動を見よ」というけれども、私はst氏を知ることで、この言葉の正しさを痛感させられた思いです。
こういうことを書くのは、st氏には申し訳ないことですし、余計に粘着攻撃される原因にしかならないだろうとは承知していますが、今後、私のようにst氏を見誤り、騙され、失敗する人が出ないようにと考え、思い切って書くことにしました。ではこれで筆をおきます。失礼。
◇◆ 追記 2020.10.4 ◆◇
*注意
くどいようだけど、st氏に関する注意を、もう一つだけ書いておきます。
stブログはしばらく前から見ていないので、今はどうなっているかは知りませんが、以前のst氏はさかんに、シャロームは偽善者であるから、その丁寧語に騙されてはいけないという警告を発していました。
私は迂闊者なので、これを読んで、へえそうなんだと思っていましたが、実際にシャローム氏と話してみると、氏はいつも自然体の人でした。時、場所、相手が変わっても、同じ態度で応対するし、批判されても、逆ギレすることはありませんでした。
一方、st氏の方は、はじめのうちは卑屈と思えるほど腰が低く、馬鹿丁寧な言葉遣いをする人だと思っていましたが、じきに意見が合わないところがでてきたりすると、態度を豹変させて、酷い悪口を言ってくるようになりました。
ようするに、偽善者で、丁寧語で人を騙すのは、シャローム氏ではなく、st氏本人のことだったのです。
そういうわけで、この記事を読んでいる方々には、st氏の偽善と丁寧語には騙されないようにしてくださいと注意喚起しておきます。st氏が謙虚で丁寧な物腰をしていたとしても、それはちょっとしたきっかけで変わるから、そこは用心した方がいいです。
*ツイート
ついさっき、上馬キリスト教会のツイート(生意気な反抗期)を見たのですが、あまりに衝撃的だったので、上に付け足す形で保存しました。リプをみると、みなさん、ノリがおよろしいようで、和みました。
*スルー
ああそうだ。一応、今後のことについても書いておきます。
今回、久方ぶりに、st氏の批判記事を読んでみましたが、相変わらず、悪口、投影、曲解、間違いだらけですし、それらをいちいち指摘して、直そうとすると、やたらと時間と手間がかかり、きりがないです。正直言って、楽山の文章なんて、ふつうに読めば意味はすぐ分かるだろうに、わざとひねくれた読み方をしてケチをつけてくる輩に、趣旨説明などをするのは面倒でもあります。
そんなわけで、これまでもそうだったように、今後もまたst氏のことはスルー対象とすることにします。st氏がまともな批判記事を書いているという噂が聞こえてきたら、ブログを見に行くこともあるかもしれませんが、基本、わざわざ見に行くことはないです。あしからず。
「楽山が、st氏の批判にこたえないのは、st氏の批判を認めたことだ」なんて早とちりする人がでてくるのも癪なので、前もってこのことを書いておきます。
◇◆ 追記 2020.10.4 ◆◇
*注意
くどいようだけど、st氏に関する注意を、もう一つだけ書いておきます。
stブログはしばらく前から見ていないので、今はどうなっているかは知りませんが、以前のst氏はさかんに、シャロームは偽善者であるから、その丁寧語に騙されてはいけないという警告を発していました。
私は迂闊者なので、これを読んで、へえそうなんだと思っていましたが、実際にシャローム氏と話してみると、氏はいつも自然体の人でした。時、場所、相手が変わっても、同じ態度で応対するし、批判されても、逆ギレすることはありませんでした。
一方、st氏の方は、はじめのうちは卑屈と思えるほど腰が低く、馬鹿丁寧な言葉遣いをする人だと思っていましたが、じきに意見が合わないところがでてきたりすると、態度を豹変させて、酷い悪口を言ってくるようになりました。
ようするに、偽善者で、丁寧語で人を騙すのは、シャローム氏ではなく、st氏本人のことだったのです。
そういうわけで、この記事を読んでいる方々には、st氏の偽善と丁寧語には騙されないようにしてくださいと注意喚起しておきます。st氏が謙虚で丁寧な物腰をしていたとしても、それはちょっとしたきっかけで変わるから、そこは用心した方がいいです。
*ツイート
ついさっき、上馬キリスト教会のツイート(生意気な反抗期)を見たのですが、あまりに衝撃的だったので、上に付け足す形で保存しました。リプをみると、みなさん、ノリがおよろしいようで、和みました。
*スルー
ああそうだ。一応、今後のことについても書いておきます。
今回、久方ぶりに、st氏の批判記事を読んでみましたが、相変わらず、悪口、投影、曲解、間違いだらけですし、それらをいちいち指摘して、直そうとすると、やたらと時間と手間がかかり、きりがないです。正直言って、楽山の文章なんて、ふつうに読めば意味はすぐ分かるだろうに、わざとひねくれた読み方をしてケチをつけてくる輩に、趣旨説明などをするのは面倒でもあります。
そんなわけで、これまでもそうだったように、今後もまたst氏のことはスルー対象とすることにします。st氏がまともな批判記事を書いているという噂が聞こえてきたら、ブログを見に行くこともあるかもしれませんが、基本、わざわざ見に行くことはないです。あしからず。
「楽山が、st氏の批判にこたえないのは、st氏の批判を認めたことだ」なんて早とちりする人がでてくるのも癪なので、前もってこのことを書いておきます。