*信仰と救い
ツイッターを見ていたら、次のツイートを見つけた。
自分はクリスチャンではないけれども、過去の宗教体験から、「実感としては「信じたから救われる」というより「救われたから信じる」の方が近い」というのは分かるように思う。
*間違い?
とはいえ、リプを見ると、冒頭の「聖書には実は「信じる者は救われる」という文言はありません」という発言については間違いだという指摘が複数ある。このことは、ロマ10:9-11で明言されているのだと…。
口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。(ロマ10:9-11)
これが正しいのだとすると、教義的には、上の「「信じたから救われる」というより「救われたから信じる」の方が近い」という実感は間違いだということになるのだろうか。
うーん。自分は、幸福の科学(HS)の会員だった頃に、教義と実感のズレに悩んだことがあったけれども、こういうことはどこの宗教でも同じなのかもしれないな。
*改心とゆるし
ちなみに、これと似た問題は、改心とゆるしにもある。教義的には、キリスト教にしても、HSにしても、改心が先で、ゆるしが後だというのが正統だろうけれども、実感としては、その反対に感じることもあるので…。
たとえば、反省、悔い改め、改心の時に、〝これでゆるされた〟というよりも、〝すでにゆるされていた〟と感じ、神の慈悲に涙がこぼれるというのは、そう珍しい体験ではないだろうし、このことからすると、反省、悔い改め、改心というものは、ゆるしのためでなく、ゆるしに気づくために必要なものだと考えても、そうおかしくはないだろう。
でも恐らくはこういう感じ方は、教義的には正しいとは言い難いものではあろう。教義によって考え、感じることができる人は、こんなことはまったく気にならないだろうけれども、教義と実感がズレてしまう身からしたら、これは本当にやっかいな問題ではある。