「第十講 再生の欲求」を読了。その内容を抜き書き、およびメモしてみる。
- 「クロムウェルの如き、ナポレオンの如き人類中の最強者といえども、実は弱き女の産みし弱き人の子たるに過ぎない。彼らの生涯は明かにこの事を示している」
- 「四節の「誰か清き物を汚れたる物の中より出し得る者あらん」は、女より生れし人の到底清くあり得ぬを説いたのである」
- 「植物に再生あるに比して人にこれなきを歎き、あるいはこれあるを望む。これインド、スカンデナビヤ等の各国の古文学に共通せる思想である」。しかし、ヨブはこれを嘆くだけでなく、植物でさえ枯れ果てたかのような状態になってもいずれ若芽を吹き、再生するのであれば、ましてや人であるならば…と希望を抱くのだという。
- 「「かくの如く人も寝ね臥してまた起きず、天の尽くるまで目覚めず睡眠を醒まさざるなり」とは、死後陰府における生活を描いたもので、陰府の生活は忘却睡眠を特徴とすとユダヤ人は考えていたのである。「天の尽くるまで」は永久にの意である。天は永久に尽きずとの思想より出でた句である」
- 14-17節について、「これキリスト以前に生まれし摯実なる心霊の来世探究史として、見逃すべからざる箇所である」という。
- 「欲求には正しきあり悪しきあり、来世の欲求の如きは正かつ善なる者である。必しも自己のためにのみ来世を望むにあらず、神の義の完全なる顕照を熱望する時、自己を離れて人に深刻痛切なる来世希求が起るのである」
- 「ヨブのこの欲求は人類全体の欲求である」
- 18節以降について、「これ死者は陰府にありてこの世の成行を感知し得ず、半醒半眠の中にただ自己の痛苦否運を感ずるのみとの、時代信念を背景として読むべき箇処である。げに痛切悲愁なる魂の呻きである」という。
- 信仰というものは、「初より全光明を一時に望むべきものではない。まず懐疑の暗雲に閉じこめられて天地晦冥の間に時々光明の閃光に接し、その光明次第に増すと反比例して暗雲徐々として去り、遂に全光明に接するに至るのである」。これは自己の信仰についてだけでなく、伝道においても同様である。
- 「来世の希望は奈落ならくの縁ふちに咲く花なり」
- 「患難は人生最上の恵みである」
講演の冒頭にある女についての話は、極端かつ過激なものであり、時代を感じさせるものがある。いま、政治家、宗教者、教育者などが、公開の場でこのような発言をしたら、抗議が殺到しそうだ。
14節の「人は死んでも生きるのだろうか」については、『旧約聖書 ヨブ記』(関根正雄訳、岩波文庫)の注釈によれば、死後の生は有り得るかどうかというよりも、「死後も神とともに生きうるのだろうか」という問いとのことである。人は死後は陰府で生きると考えているので、死後の生の有無は問題とならず、ただ神とともに生きられるかが切実な問題になっているのだと…。信仰のある人からしたら、これは本当に深い悩みであろうと想像する。