*疑心があるとき
 かつて、とある宗教を信じて信者になったものの、さまざまな理由からその宗教が信じられなくなって悩んだことがあった。
 信じなくてはならないと思うのに、どうしても信じることができない、でも棄教すれば地獄に堕ちるというし、それなら信じきれてないけれども信者は続けようか、いやいや信じきれていないのに信者を続けるのは嘘であろうし、それは神を騙すことになるのではないか、それよりは正直に信じられないものは信じられないとするべきではないか、嘘の信仰より、正直な棄教の方が正しいのではないか、自分に正直になった結果、裁かれ、地獄に堕ちるなら、それも本望ではないか…などなど。
 最終的には、自分は自分に正直になる道を選んだのだけれども、これはどうやらシルバー・バーチ的には正解だったようだ。
私は決して正直に疑う人を非難しているのではありません。もともと神は人間に理性的判断を賦与しております。それは日常生活において行使すべく意図された神からの授かりものです。理性を抑圧して理不尽なものを信じさせようとする者は光明へ逆らって生きていることになります。理性に従う人間はその過程がいかに苦痛でいかに困難であろうと、そして又その結果、神聖にして侵すべからざるものと教え込まれた聖典に記されているものを放棄せざるを得なくなったとしても、少なくとも自分には正直であると言えます。

(『シルバー・バーチの霊訓(二)』シルビア・バーバネル編、近藤千雄訳、潮文社、昭和60年、p.181)
 「正直に疑う人」というのは、面白い表現だ。これは一度聞いたら忘れられないだろう。
 自分は、自分に嘘をついて信仰するよりは、正直に疑う人でありたいと思う。