*霊的な危険性
 ツイッターを見てたら、幸福の科学(HS)の会員が、「鬼滅の刃」の危険性を訴えていた。
 プロフィールには「発信する内容は私見であり責任は古山」とあることからすると、この発言は教団の公式見解ではなく、個人的な意見ということなのだろう。


*鬼の霊言
 でも最近、HSでは鬼の霊言が公開されたらしく、アンチ諸氏の間で、次の記事が話題になっていた。
 記事中から、「鬼滅の刃」に関連する箇所を貼るとこうなる。
「鬼滅の刃」に関係する黒鬼より、「鬼滅の刃」鑑賞者を“鬼化”して操ろうとする狙いや、日本古来の裏側系の宗教を復活させようとする意図が語られました。

 こうしてみると、古山氏のツイートは、私見としつつも、実際にはHSの意向にそったものであるといえそうだ。
 それはそうと、HSに出てくる霊は、いつも、みんな口が軽いね。たくらみ事でも何でもぺらぺらしゃべっちゃう(笑)。


*はてな?
 ところで、一応、自分は元信者なので、古山氏の意見の大枠は理解できなくもない。「鬼滅の刃」には、愛、友情、努力、反省などが描かれてはいるが、それ以上に、残酷な場面は多く、怖ろしい姿の鬼も多数出てくる。前者ならまだしも、後者の要素は非常に危険であるから、この影響は受けないように注意が必要である。云々と。
 また霊的な影響を持ち出すまでもなく、残酷描写、異形の怪物など、ホラー的なものが苦手の人は、「鬼滅の刃」は避けた方が無難ではあろうとも思う。
 でもさすがに、「「鬼滅の刃」鑑賞者を“鬼化”して操ろうとする狙い」という話は、いささか馬鹿げているように思える。「鬼滅の刃」を見て、炭治郎に感化され、愛に目覚める人はいても、鬼に感化され、鬼になろうとする人っているのだろうか。
 映画が大ヒットすれば、観客数は増えるわけだから、その中からおかしな人が出てくる可能性も増えるのだろうけれども、観客が次々に鬼化して行くというのは、ひどい妄想だと思う。


*愛の前に敵なし
 ちなみに自分は、「鬼滅の刃」を見て感動したクチである。映画はまだ見てなくて、gyaoで無料配信されていたアニメを見たくらいだけども、主人公である炭治郎の生き様は、まさに愛の前に敵なしというものであり、感動させられた。
 少し具体的なことを書くと、こんな感じだ。いちいち場面、状況について詳細な説明はしないけど、アニメを見た人なら、どの場面について書いているのか、およその見当はつくと思う。
  • 炭治郎は、妹が鬼になっても決して見捨てない。妹を救うために全力を尽くす。
  • 妹を守るためなら、土下座もするし、命がけで柱とも戦う。
  • 炭治郎の愛は、人が持っている鬼に対する偏見も消し去る。
  • 炭治郎を知った者は、みな協力者になってゆく。
  • 鬼を差別せず、人としての尊厳を認める。
  • 鬼の苦しみ、悲しみを理解し、寄り添おうとする。同悲同苦の徹底。
  • 人の心を失ったかに見えた鬼でも、そういう炭治郎の前では反省をはじめる。
  • 炭治郎の相手を信頼する心、率直さ、ほがらかさは、柱や鬼だけでなく、頑なな少年の心も、閉ざされた少女の心も、解きほぐして行く。
 自分としては、「鬼滅の刃」が大ヒットしているということは、こういったことを理解、共感する人が、それだけ多いということなのだろうと思う。


*水と油
 ついでに、HSについても感想を述べると、HSは「鬼滅の刃」とは正反対であるように思う。
 まずHSは、権威主義的な団体であって、教祖である大川隆法の前では、何人でも頭をたれなければならないところだ。でも炭治郎は、たとえ柱という権威ある存在であっても、妹を傷つけたならば頭突きをお見舞いする。お館様の前でも、言うべきことは言おうとする。
 またHSでは、敵認定した相手に対しては、徹底的に貶めることをする。たとえ教祖の妻、子であっても容赦しない。でも炭治郎は、鬼に対しても人としての尊厳を認め、それを侵す者は、たとえ柱であっても注意する。柱が、死んだ鬼の着物を踏みつけているときは、足をどけるように求める。
 HSは悪霊悪魔を非常に恐れる。上のツイートのように、たとえエンタメ映画であっても、地獄と波長同通する可能性があれば、それを見ることを恐れる。でも炭治郎は、鬼と徹底的に向き合う。意見の合わない柱にも立ち向かってゆく。鬼からも、意見が合わない相手からも、決して逃げない。
 HSでは、一般の信者だけでなく、幹部、功労者、教祖の家族でさえも、次々に離反し、批判者になっているのが現状だ。でも炭治郎の場合は、出会う人たちはみな協力者になってゆく。
 HSと「鬼滅の刃」の相違点は、この他にもいろいろあるだろうし、まさに水と油である。
 HSが広まらない、映画が流行らない一因は、この辺りにもあるのだろうし、関係者はこの点について研究してみてはいかがだろうか。こんなことを書いても、余計なお節介にしかならないのだろうけれども、成功している映画を貶すより、そのよいところを学び、自らを反省する機会にした方が、自らのためにも、他人のためにもなるのではないかと思う次第である。