gyaoで、映画『プルーフ 神の存在』を見た。あらすじは、次のようなものだ(以下、ネタバレ有り)。
天才学者であるジニーンは、宗教はまったく信じない無神論者であり、ある筋からの情報を得て、神は存在しないことを証明する論文を発表する。これによって宗教の権威は失墜し、多くの人々が信仰を失い、悩み苦しむ結果となる。ジニーンは、この段階になって良心の呵責を感じはじめ、ついには自分は悪魔に操られていたことに気づくのだが、時すでに遅し…。
映画の構成は、過去と現在を行ったり来たり、現実と夢(妄想?)が入り組んでいて、話が分かり難いところもあるのだが、根幹のストーリーは、大体こういう流れだろう。
*見どころ
作中では、序盤において、「神は存在するか?」というテーマで、熱い議論がかわされる場面があるのだが、ここでの主人公の主張にはなかなかの説得力がある。
宗教には、とても神が存在するとは思えないような汚辱にまみれた歴史があるので、主人公がしているように、聖職者らの不品行の例をつぎつぎに挙げられると、「ああ、神はいないんだなあ」という感慨を抱かないではいられなくなるのだ。
理屈としては、聖職者がどんな罪を犯そうとも、それは人は不完全だということの証明にはなっても、神は存在しないことを直接に証明することにはならないのだけれども、それはそれとして神の陰に隠れて悪行を続ける聖職者の存在は、自分の信仰心に何らの影響も与えないというわけにはいかないのだから仕方がない。
*なぜ?
とはいえ、このテーマの議論では、神の存在を信じる側も、信じない側も、確たる証拠もなしに、自分の意見を相手に押し付けようとするのは、どうしてなのだろうと思う。
現実には、神は存在するという証拠も、神は存在しないという証拠もないのだ。それだったら、「私は神は存在すると信じる」とか、「私は神は存在しないと信じる」などと言うことはできても、「神は存在する」と断言して、それを相手に押し付けることも、「神は存在しない」と断言して、それを相手に押し付けることもできないはずだ。
でもどちらの側も、平気で自分の意見を相手に押し付けようとすることが多い。こういうことは実にばかばかしいことだと思う。
また、宇宙や人類の起源について、神を持ち出すことなく、説明することができたとしても、それはあくまで「宇宙や人類の起源は、神を持ち出すことなく説明できる」ということではあっても、神は存在しないことを証明したわけではないだろう。これについて創世記の記述に反するというならまだ理解できるけれども、神は存在しないという主張だと解して反発するのはおかしなことだ。
巷には、宗教絡みの議論だと、すぐに極論にはしる輩がいるし、本作でもそういう登場人物ばかりだけど、なんでそんなふうになってしまうのか、自分には謎である。
*本音
本作は、表向きは「無神論の背後には悪魔がいる」というメッセージ色が強いが、人物描写に限って言えば、無神論者以上に、聖職者や信仰者の方が醜悪に描かれているようでもある。はっきりいえば、本作の聖職者や信仰者は、傲慢で強権的だったり、妄信に陥っているようだったりで、カルトっぽく表現されている。
この点からすると、本作の目的は、無神論を批判するためという単純なものではなさそうであるし、製作者はなかなかの策士かも…。