*全体の印象
本書で紹介されているのは、役小角、行基、陽勝、泰澄、行叡、教待、報恩、日蔵、蓮寂、玄賓、性空、叡実、行巡、増賀、仁賀、西行、空也、教信、理満、千観、平等、桃水、東聖、徳一、行空などである。
全体を通読した印象では、前半は人を驚かせるような神通力に関する話が多く、後半は名利を捨てて仏道を求める生き方に関する話が多くなっている。紹介されている話は、どれもみな、にわかには信じ難く、また常人にはとても実行できないことばかりなのだが、それだからこそいろいろと考えさせられるものがあるともいえる。
*二つの話
ところで、著者は名僧の逸話以外にも興味深い話を二つほど書いている。まず一つは、戦後は歴史上の人物について史実に基づいて語ろうとするあまりに、現代人の視点からみて荒唐無稽に思える逸話は事実でないとして否定する傾向が強まっているが、たとえそのような逸話であっても、それが多くの人々に信じられ、大きな影響を与えて来たことは紛れもない事実に違いないという話である。
もう一つは、「オウム真理教を根本的に批判することのできない仏教など、あるいは仏教学など、少なくとも「オウム以後」にあって、どれほどの存在意義があろうか」(p.253)という日本仏教界に対する厳しい問いである。
*カルトと奇僧伝
自分はこの二つの意見はそれぞれ一理あるとは思うのだが、でもよく考えてみれば、オウムにしろ、幸福の科学にしろ、そういうカルト宗教の背景には、超能力信仰、霊能力信仰、グルイズムといったものがあり、さらにその根っ子には、本書で紹介されているような名僧が神通力を発揮したという逸話の影響があるのだろうし、そうであれば日本仏教がオウムを批判しようとするならば、まずは名僧の行ったという奇跡話の真偽を批判的に検証する必要があるということにもなり、この意味ではオウム批判の必要性を問いつつ、奇僧伝を著すというのはいささか矛盾しているということにもなるのではあるまいか。
『日本奇僧伝』というタイトルにひかれて本書を手に取った自分が言うのも、これまた矛盾ではあるのだろうが、霊能力信仰やグルイズムをあおるような奇跡話の流布には注意が必要であるし、そういう話をするときはこれはあくまで逸話にすぎず、史実ではないということはいくら強調しても強調し過ぎということはないのだと思う。