『基督抹殺論』幸徳秋水著

*まえおき
 岩波文庫の『基督抹殺論』は、随分前に一度通読したことはあるのだが、十字架は元々は男根の象徴だったという主張には度肝を抜かれたので今でも覚えてはいるものの、他の話はほとんど忘れてしまったので改めて読んでみることにした。


*主張
 というわけで、本書の全体をざっと読んでみたところでは、著者の主張はおよそ次のようなものである。
 イエスの生涯について書かれた四つの福音書には、それぞれ違うことが書いてある、たとえばイエスの系譜について、マタイ(1.1-17)とルカ(3.23-38)では数十代にわたって記しているが、そのうち重なるのは数名に過ぎず、ヨセフの父からして違っている、このような書物は果たして正しいことが書いてあると信頼できるものであろうか?
 信条や正典を決する会議では「彼等の信條を決し、經典の眞假を議するや、直ちに罵詈讒謗爭闘の大醜態を演じ、皇帝は議場の整理の爲めに遂に武力を用ゆるの已む可らざるに至り」(p.32 昭和29年)という混乱の極みにあったというが、このような会議において正しい結論を導き出すことは可能であったのだろうか?
 当時書き記されたものの中にイエスについて触れたものは一つも確認されていないが、福音書にあるような奇跡を起こした者について誰も何も書き残さなかったというのは不自然なことである、イエスについて書かれた文書が発見されたといっても、それは後の世で書きこまれたものだと判明しているし、時の権力者がイエスについて書かせないようにしたという推測は、イエス以外の救世主を名乗るものについて、いくらでも書き残されていることからすると説得力を持たない、はたしてイエスは実在したのであろうか?
 福音書には矛盾があり、イエスが実在した証拠はなくとも、キリスト教の道徳的価値については揺らがないという意見もあるが、記録によれば当時の人々はキリスト教徒は倫理的道徳的に問題があると考えていたのであり、これは外部の者に限らず、キリスト教内部でも議論になっていたことである、禁欲も過ぎればその反動で余計に反社会的な行動に走ることもあるのだ、キリスト教以前にも倫理道徳は存在し、それに頼らなければ倫理的道徳的に生きられないということもあるまい云々。
 著者はこのような主張を重ねた後、「基督敎徒が基督を以て史的人物となし、其傳記を以て史的事實となすは、迷妄なり、虚僞也。迷妄は進歩を礙げ、虚僞は世道を害す、斷して之を許す可らず。即ち彼れが假面を奪ひ、扮粧を剥ぎて、其實相實體を暴露し、之を世界歴史の上より抹殺し去ることを宣言す」(p.123)と結論している。


*事実と信仰
 巻末の解説によると、本書は、出版当時には相当評判となり、キリスト教側からは著者はキリスト教の基礎知識に欠けるだとか、独断に満ちているなどの反論があったというが、自分のような門外漢からすると、イエスが実在した証拠がないこと、四つの福音書には矛盾した記述があることなどからすると、これらは事実かどうかの問題ではなく、信じるか信じないかというは信仰問題であろうし、後者については各人が自分の心に問うて決めることであり、他人がとやかく言うことではないのだろうとは思う。信者からすれば信仰は事実であろうから、人それぞれの自由では済まされないことではあろうが、非信者にとってはそのように結論付ける他はないのだから仕方がない。
 信者とそれ以外とでは、何を事実とするかにおいて大きな隔たりがあり、これがために宗教に起因する揉め事は後を絶たないのだろうけれども、この問題は信仰と事実とを区別することができない限りは解決されることはないだろうし、次々に新しい宗教が生れ、いくつもの新しい信仰が発生している以上、この問題はますます混迷を深め、やっかいなものになっていく以外にはありそうもない。著者は基督を抹殺して議論を終了させたつもりではあろうが、なかなかそう簡単には決着はつくまいと思う。