*急接近?
 ツイッター上で、島田裕巳氏と幸福の科学が急接近していることが話題になっていた。
 あちこち見てまわったところでは、今回の動きの全体像は、この辺りのページが分かりやすくまとまっている。


 はてさて、両者の関係はどうなっていくことやら…。


*期待
 この話題を追っていて思い出したのだが、『平成宗教20年史』において、島田裕巳氏はHSとの関係について次のように書いていたのだった。
DSCN1378島田裕巳『平成宗教20年史』
 これについては、ウン十年前にHSを厳しく批判したのは若気の至りであって、今は年を取って角も取れ、まるくなったので、無暗に他者を批判したりはしないというのは自分にも理解できる。
 でも、大川隆法のナショナリズムや霊言集は、前よりも、今の方がより酷くなっているわけで、前はこれを問題視して批判したが、今はそれはしないというのでは、どうにも筋が通らないように思える。
 氏は、HSとはなあなあでうまくやっていこうとしているのか、それともHSUの中であっても言うべきことは言う、批判すべきことは批判するという姿勢を貫くつもりなのかは分からないが、できれば後者であってほしいものである。


*許す愛との兼ね合い
 上では、島田裕巳氏について書いたので、次はHSについて書いてみたい。
 まず以前のHSでは、「許す愛」という教えがあり、これは悪魔を許すことではないと説いていたのだった。許す愛とは、自分の罪を悔い、涙を流して反省している者を許すことであって、自分の罪を反省しない者や確信犯的に悪を為す者…悪魔を許すことではないと。
 この教えからすると、HSは、島田裕巳氏がHSを悪く言った過去について反省、謝罪しない限りは、許すことはないということになるし、もし氏に講演依頼をしたり、非常勤講師の就任について交渉したりするとしたら、それは氏が前非を悔い、涙を流して反省、謝罪したからだということになるはずだ。
 でも実際はどうかといえば、島田裕巳氏は次のようなツイートをしている。

2020-11-16 (10)別に和解はしてません
https://twitter.com/hiromishimada/status/1326820805066387456

 氏はHSとは和解はしていないそうだし、「巌流島の戦い」というたとえからすると、いまも対立しているということらしい。
 とすると、HSは、大川隆法総裁を悪くいったことを反省せず、謝罪もしていない相手に対して、講演依頼をしたり、非常勤講師の就任について打診していることになる。つまり許す愛の教えに背いている。
 HSにとっては、島田裕巳氏のしたことは、仏陀誹謗、和合僧破壊などであり、宗教的には最も重い罪であるはずなのに、なんらの反省、謝罪もなしにこれを不問に付して、講演や非常勤講師を頼むというのは、全然、筋が通らないのではあるまいか。


*アンチにすがる宗教
 さらに、もう一つ。
 他人の心は分からないことではあるけれども、おそらくは島田裕巳氏は、大川隆法総裁のことを仏陀だとも、主エル・カンターレとも認めていないだろうし、霊言も信じていないだろう。また今はさほどではないにしても、過去にはHSを執拗に批判していたのだった。いわば、古参アンチの一人である。
 ツイッター上では、HSでは人材難に陥っており、アンチの島田裕巳氏に頼らざるを得ないのだろうと噂されているが、もしこれが本当なら、HSは危機的状況を打開するために、アンチに救けをもとめているということになる。これはあまりに情けない。
 HSはもし少しでも矜持があるなら、窮迫していようが、していまいが、アンチに討論を申し込むならまだしも、講演や非常勤講師を頼むのは止めた方がいいのではなかろうか。


*大人の事情
 なんだか、言わずもがなのことばかり書いてしまったが、一応、自分ももういい年なので、大人の事情というものを察することはできなくもないし、何事も原則通りには行かないものだということはわかる。
 でもそれはそれとして、組織的判断には、多数を納得させることができる大義が必要であることも事実だ。HSは、HSでいうところの仏陀誹謗、和合僧破壊という最も重い罪を犯し、それを反省していないだろう人物に講演や非常勤講師を依頼するのであれば、それにはどのような大義を用意しているのだろうか。ぜひとも聞いてみたいものだ。
 ちなみに自分は、今回の出来事について説得力ある大儀が提示されない場合は、それ自体が、HSでいうところの仏陀誹謗および和合僧破壊の罪などというものは、宗教的な大罪というようなものではなく、その時々の状況でどうにでもなるし、たかだか二、三十年で忘れられるものにすぎないということを示していると解釈するつもりである。それだからHS内では、大川隆法を悪く言った過去がある人物に講演や非常勤講師を依頼することに、さして抵抗もなく、相応の論理を構築する必要性も感じないのだろうと。
 こういう解釈が妥当かどうかは、HSが説得力ある大儀を提示できるかどうかによって判断されるわけだが、はたしてHSにそれはできるだろうか。HSが何か言うか、何も言わないか、興味を持って見守りたいと思う。