『華胥の幽夢』小野不由美

*耳に痛いこと
 十二国記を読んでいたら、議論好きの自分としては耳に痛いことが書いてあったのでメモしておきたい。
 まず、この物語の主人公たちは、悪政によって苦しめられている民を救うために、道を見失った暗愚な王を批判、排除し、自分たちが実権を握り、種々の政策を実行したものの、どうしたわけか、かえって国土は荒廃し、民を困窮させることになってしまったという状況下において、次の話をしていた。
責めるのは容易い。非難することは誰にでもできることです。でも、ただ責めるだけで正しい道を教えてあげられないのなら、それは何も生まない。正すことは、何かを成すことだけど、非難することは何かを成すことじゃない

(『華胥の幽夢』小野不由美著、新潮社、令和元年、p.287)
 また、こうも言う。
私たちみたいに、高い理想を掲げて人を責めることは、本当に簡単なことです。でも私たちは、その理想が本当に実現可能なのか、真にあるべき姿なのかをゆっくり腰を据えて考えてみたことがなかった気がするんです。

(同上、p.291)
 自分としては、他人と議論する際には、理想は人それぞれ異なること、相手に無理なことを求めないことを心掛けているつもりではあるが、「自分にはとても実現できない理想を描き、その理想の妥当性についてさほど吟味することなく、それに合致しないことをもって他者を批判してはいないか?」と問われれば、そんなことは絶対にないとは言い切れないのはつらいところだ。反省。


*余談
 ちなみに、この手の話で思い出すのは、この議論だ。



 これを読むと、当然のことながら、「耳に痛いこと」で書いたことは、いつでもどこでも誰にでも当てはまることではなく、時と場合によってはそうとも言えないことがあるようなので、なかなかにややこしい。