*いつも通り
 LEO氏は、またもやアテツケ記事みたいのを書いてる。そして今回もブーメランになってる。



*ブーメラン
 まず、ここは特大ブーメランになってる。
キリスト教系を称する邪教というのは、十中八九、聖書のことばを自分流に勝手に解釈して、本来の教えとはかけはなれた、正反対のことを主張していることが多いのではないか。
 聖書を勝手解釈しているという点については、HSがまさにそれだろう。たとえばHSの聖書理解はこういうものだったかと。
  • 聖書の神…エロヒムとは大川隆法のことである。大川隆法は天上界から地上のイエスを指導し、イエスからは「我が父」と呼ばれた。
  • 聖書には神以外の言葉も混じっている。預言者は啓示を送ってくる霊存在の正体をはっきりわからなかった。よって地下の者の言葉も一部に混じっている。
  • 聖書の欠点として、霊界の様相や転生輪廻の仕組みについて詳しくないことがある。
  • イエスの再臨とは、イエスが大川隆法を通じて霊言をすることだった。大川隆法の霊言によって、イエスは再臨した。
  • パウロは親鸞として生まれ変わった。十二弟子は浄土宗系の僧侶として多く生まれ変わった。矢内原忠雄は十二弟子の生まれ変わりで、内村鑑三、カントなどは旧約の預言者の生まれ変わりである。
  • イエスの過去世はアトランティス大陸のアガシャー、エジプトのクラリオなどであり、いずれも悲惨な最期であったが、それはイエス自身がそのようなことにひかれる自虐的精神を持っていたためである。一方、大川隆法の過去世は、仏陀、ヘルメス、リエントアールクラウド、ムーなどであり、いずれも悲劇に見舞われることなく、成功をおさめている。
 若干、聖書以外にも話は広がってしまったが、こんなことを主張するHSの信者が、邪教は聖書を勝手解釈する云々といってもブーメランになるだけだ。


*HS的な解釈
 ここは、いかにもHS的な勝手解釈になってる。
幸福の科学では、キリスト教系の作家の霊言というのが、すでに何冊か出ていますが、三浦綾子さんの霊言はまだ出ていません。
なので、いったいどういう立ち位置に立たれている方なのかは、定かではないのですが、

とある作家は、三浦綾子さんと同じようなところにいますか? といった問いに対して、
 … みたいな返事をしていたので、同じくクリスチャン作家といっても、その信仰心の深さと、あの世で住まう境涯はやはり違うんだな、と感じた次第です。

わたしはきっと、光の天使の世界にこの方は帰っていると信じている者ですが、
 HS信者が、三浦綾子のことをHSの世界観に当てはめて、七次元以上だとか何とかいうのは、三浦綾子本人やキリスト教からみたら勝手解釈以外のなにものでもないだろう。
 ちなみに、ずいぶん前にHS職員が、「三浦綾子氏はいろいろ言っているようだが、きちんと説明すれば分かってもらえるはず…」と言っていたのを聞いた記憶がある。全集か何かで調べようと思いつつも放置したまんまだけど、もしHSに批判的なことを言っていたのだとしたら、光の天使認定には、霊界に還ってから改心したとか理屈が必要かもね。


*読解力
 これは誰のことを言ってるのか分からないが、もし楽山のことを言っているのであれば、勝手解釈ということになる。
神とはこれこれ、こういうものではないか。神は何々であるか、どうのこうの、といって、神を理屈でもって論じて、わかった気になって勘違いする人間もあらわれてきかねませんし、現にいるでしょう、そういう人。

これは、認識の対象、あるいは、知識的な、知的なる分析や論理でもって、神を解明し得るという、知に偏った見方ですね。それに陥っていることに、当人がおそらくは気づいていないのでしょう。

知だけでは、神はわかりませんよ。認識の対象としてのみ、理解できると思ったら大間違いだと、わたしは思います。
 自分は、基本的には、人には神のことは分からないという不可知論的な立場だ。だから、神はこうだとすれば、こういうことになるだろうという仮定の話をしたり、自分の宗教感覚からいえばこう感じるということをいうくらいで、最終的な結論は、やっぱり神のことは分からないということになる。だから、ぽん吉氏から「君は理屈をこねるだけで結論はないのか。はっきりしろ」とツッコミを入れられたりする。
 もし楽山の文章を読んで、理屈で神が分かると考えてる人だと解釈するなら、その人の読解力は、ぽん吉氏に劣るということだ。


*すり替え
 ここは、すり替えになってる。  
「君よ、涙の河を渡れ」(幸福の科学の会内経典)でも、上にあげたような心のありようの大切さを、項目別に教わることが出来ますが、従順、という気持ちがとても重要なんですよね。

これに反発するようであっては、神仏の教えに素直にしたがう気持ちがあるとは言えないな、とわたしは思うんですけどね。
自分の自我を優先して、反発する心があると、従順にはなれないし、従順かどうか、というチェックポイントで赤点になることでしょう。
だからこの、従順さ、というのは、とても大事なポイントかと思います。
 「君よ、涙の河を渡れ」の現物は確認していないので断定はしないが、これは噂に聞くところによれば、何も考えず、判断せず、大川隆法を信じてついて行くべきことを説いているものだという。
「君よ、涙の谷を渡れ」
 HS的には、「神=大川隆法」だろうから、「大川隆法に従順であれ」といっても、「神に従順であれ」といっても、どちらもさして違わないかもしれない。
 でもキリスト教的には、大川隆法は神ではないから、「神に従順であれ」とはいっても、「大川隆法に従順であれ」とは言わないだろう。それどころか、大川隆法は神でも救世主でもなく、従ってはならないと説くだろう。
 にもかかわらず、LEO氏の書きぶりだと、HSも、三浦綾子も、キリスト教も同じことを説いているかのような口ぶりだ。
 これはすり替え、捏造、誤魔化しであり、よくないことだ。


*偽装
 ついでに書くと、今度の記事タイトルは上のようなすり替えが酷い。
 まずHSの定義は、およそ次のようなものだろう。
  • 真理→仏法真理
  • 神→大川隆法総裁(主エル・カンターレ)
 これに基づいてタイトルを決めれば、こうなる。
  • そこにふくまれている宝石のような「仏法真理」を見つけなければ、意味がない
  • わたしたちは 謙遜に、創造者なる「主エル・カンターレ」の前に、頭を下げねばならない
  • 責任を他の誰かのせいにしようとか、「主エル・カンターレ」のせいにしようとかいう気持ち
 でも実際のタイトルでは、HS用語ではなく、より一般的な言葉にしてある。
  • そこにふくまれている宝石のような真理を見つけなければ、意味がない
  • わたしたちは 謙遜に、創造者なる神の前に、頭を下げねばならない
  • 責任を他の誰かのせいにしようとか、神のせいにしようとかいう気持ち
 という風に。
 ようするに、意図的かどうかは分からないが、タイトルでは、HS色が薄めてあるということ。厳しい言い方をすると、HS用語を使わないことで、一般的な宗教について語っているかのように偽装してあるということ。
 対機説法として、そのような言い換えをしていいるのかもしれないが、見方によっては、正体を隠して近付いてくるカルトのやり口と同じであるし、これはよくない。


*傲慢
 これは宗教信者にありがちな傲慢さだ。
悔い改めなくば、許されることはない。神の許しも得られない。

これはあの世における、天国と地獄の世界分けを見ても、確かにそうなっていることですね。
悔い改めがなくとも、どんな人でも神は許してくださる、救ってくださる、というのは間違いですね。霊的世界の実相を知ってみれば――地獄の存在と、地獄で苦しむ不成仏霊たちの姿を見れば――そんな安易な許しと救いの世界になどはなっていないことがわかります。

神さまが人間に与えた自由と責任の法則のもとに、許しの前には、反省と悔い改めが要るのです。 
 神は絶対で、超越した存在であるとするならば、ゆるすかどうかは神が決めることであって、その御心は人には分からないことだ。それにもかかわらず、「神はこのような基準によって、このような判断をする」と断言するのは傲慢でしかない。
 人にできるのは、「〇〇教の教義では、神はこれこれこのような判断をすることになっている」とか、「誰それがいうには、神はこのような考えを持っているそうだ」とか、「自分にはどうも、この話が本当らしく思われる」という程度のことだ。
 でも特定の宗教を信じすぎると、「神はこのような基準によって、このような判断をする」という風に、平気で神のことを決めつけがちだ。これは宗教を信じることで、神から遠退くということであり、ここに宗教の弊害がある。
 これは霊界認識についても同様だ。霊界は心の世界のことだとすれば、心というものは「~という傾向がある」「~という場合が多い」とはいえても、「こうすればこうなる」と断言できるものではなかろうし、それなら霊界も「こうすればこうなる」とは言い切れぬものだろう。
 にもかかわらず、特定宗教の教義を信じてしまえば、「霊界にはこういう法則がある。だから、こうすればこうなる」と安易な考え方に陥りがちだ。ここは注意すべき。 


*無慈悲
 月刊誌の記事を読んだが、どうやら神義論に関連した話のようだ。
スケールの大きな視点からの、この世界の現状、日本と世界、それから、この世の不幸、不合理に見える様々なことも、仏教的立場から見たら、よくあること、というお話は、目から鱗です。 
 悲しみや、苦しみに意味を見出せば、それを乗り換えやすくなるというのはいえる。「これは~のためだったのだ」みたいな考え方は、心の癒しになりえる。
 歴史は繰り返すというのもその通り。でも一人一人の人間にとっては、自分が体験することはすべて一回きりだし、「よくあること」では済まないものだ。
 だから悲劇に見舞われた人に対して、第三者が「それはよくあることです」というのは、無慈悲なことだ。「それには深い意味があるんです」というのも出過ぎたことだ。
 どうやら大川隆法は、原爆投下は神の計画だったというようなことをいって、田原総一朗からそんなのは被害者一人一人からしたらたまったもんじゃないと呆れられたときから少しも変わっていないらしいし、愛弟子を亡くしたときに、「天は私をほろぼした。天は私をほろぼした」と慟哭した孔子とは全然違うようだ。大川隆法は愛に欠けるという指摘があるけど、どうもこれは必ずしも見当違いというわけではなさそうだ。