*再読
「身の丈論争」を再読したところ、現在にも通用するテーマが語られていることが分かったので、ここに記録しておきたいと思う。
*お金がかかる
まずは、前編から要点を抽出し、感想を書いてみる。
これはHS信者なら、多くの人が思ってることだろう。
支部に行くにも 金がかかるから あまり行けないんだよ宗教って 心の教えを学ぶものだろ?そもそも そんなに金がかかるもんなのか?金がかかりすぎる
*ブーメラン
こういう構造は、ますます酷くなっていると思う。
KKってさあ、世間への提言・批判を自分とこの教団に置き換えて考え直してみたらいいのにと思うことばかりなんだよね。内部は北朝鮮さながらなのに、欧米的な洗練が身についてると勝手に思い込んでる。
*従順であれ
「内なる神を信じよ」という考え方は、今はもう跡形もなく消えたっぽいな。
631 :神も仏も名無しさん:2010/02/13(土) 12:05:07 ID:2hIrnLGE>>554昨今は信仰とは「従順であれ」ということだと強調してるからねえ伝道、布施、従順、これがエルカンターレ信仰者の義務であり骨格ここで「うちは強制はない、自由だ」とか字面のレトリックだけで反論している輩は職員さん等の工作活動の場合もあるけど、常駐信者によるものの場合はえてしてその本人は、実際はろくに伝道もせず、布施もせず、従順ではない、んだよね身の丈の布施にしても、具体的に対収入割合など少なくとも自分の実例としてすら語れないのが特徴かな、自分を棚上げした御用評論家に過ぎないってことだねこういう人は得てして平均所得より多い収入があるのに(あっても)、平均布施より遥かに少なくしか金額的にも割合的にも布施しないんだ(笑)
652 :舞華 ◆3nJSlL8onU :2010/02/13(土) 15:00:43 ID:TG/jUVxG>>631>ここで「うちは強制はない、自由だ」とか字面のレトリックだけで反論している輩は>職員さん等の工作活動の場合もあるけど、常駐信者によるものの場合は>えてしてその本人は、実際はろくに伝道もせず、布施もせず、従順ではない、んだよねつまり実態を見ようとしないか、見えない位置に身をおいているかいずれにしても、おき楽な立場ではあると言えるでしょうねだって、まともに会と向き合って活動していれば見えることだものでもまぁ、それはそれでいいと思うのよね全員が苦しむことはないですよ
*深いお考え
次は後編から要点抽出してみる。
これは自分にも、身に覚えがある思考法だ。
総裁が常々おっしゃっていることは「疑うな」「小ざかしい人間頭で理解できると思うな」ですからつまり幸福の科学でいう確固たる信仰とは「疑うな、考えるな」ということです一体一万票のはずが全敗でも、考えちゃだめ、疑ったらだめもう、おっしゃることや方向がコロコロと変節しても考えちゃダメまぁそんな感じですよねまさに人間やめますか?と言われているようなもので、わたしには無理というものです自分の我といわれればそのとおりですけれど、わたしには譲れない一線がありますからカトリックが変なことしだしたらやっぱりわたしはヤメますね
そういえば、選挙の時は、1000万円のエルカンターレ像一体購入で、一万票入るという話を聞いたのだった。総裁が立候補する、やっぱり撤退する、でもやっぱり撤退を撤回するというすったもんだもあったのだった。
*確固たる信仰心と道徳的行為
これは聖杯と剣氏の発言。まさに正論だ。
確固たる信仰心って何なのだろうか。それって盲信・狂信と何か違うのだろうか?少なくとも神学的な伝統から言えば「確固たる信仰心」とやらには盲信・狂信・イデオロギーの物神化を疑うのが普通ですね。物理的属性を備えていない神の存在を人が感得できない、その存在を信じられないのは当たり前ですね。神の存在を疑う事と、神を畏れてよき人になる事は全く矛盾しません。よって思考や心情が逡巡するのはある意味当たり前なんですよ。それはその人が神についてしっかりと考えている事を意味します。いわゆる新興宗教の人達は絶対的な服従を強調し、そうした神学的伝統について全く無知な人が多い気がします。だから発想がいつもカルト的な二者選択に満ちていて、すごく危なっかしいんですよ。全能の主を受け入れて絶対服従するか、それを否定するかという二者選択しかない。この世の中には有神論者か無神論者しかいない。そういう危うい断定に満ちているわけですね。ところが人は神の存在は確信できないが神が示した律法・生き方には共鳴できるとか、神の存在を確信しているが、倫理的に生きる事はできていないとか、神の存在についてそこまでぶっちゃけ考えてないとか、まあ色んなフェイズがあるわけです。そこでイエスに対する信仰を教義の軸とするキリスト教はともかく、行為と道徳的実践と知的探求を軸とするユダヤ教では神の存在を疑っていたとしても律法に従い道徳的実践を行う事で善きユダヤ人になりうるとタルムードで解釈しています。
神と信仰について、自分はここは理解できるが、こちらはできない、ここは共感できるが、こちらはできないという具合に分けて考える性質で、それに対してLEO氏は傲慢だとか何とか立腹しているようでわけが分からなかったのであるが、聖杯と剣氏の書き込みを読んで合点が行った。ようは、LEO氏は神と信仰を丸呑みするかしないかという危うい断定に陥ってるということなんだろうな。
そういえば以前、ツイッター上にて、信者氏が「信仰がないのは動物と同じだ」と言い放って、ぷち炎上になっていたこともあった。これも危うい断定に陥っている例だろうな。
そういえば以前、ツイッター上にて、信者氏が「信仰がないのは動物と同じだ」と言い放って、ぷち炎上になっていたこともあった。これも危うい断定に陥っている例だろうな。
*100パーセントの信仰
これは舞華氏の発言。こちらも正論。
だいたいね、あなたたち、堅固な信仰って言ってるけど、疑わずに100%受け入れる信仰なんて信仰じゃないんですよちんちくりんなオジサンを至高神だエル・カンターレだなどということは、自分の認識力を過信した思い上がりもいいとこで、神に対する傲慢不遜のきわみなんですよ人間には究極の神の実態認識はできないんですよだからこそ神に対して畏れ、誠実であろうとするならば、信のうちの数パーセントでも良い意味で「疑」がなければだめなんですよその「疑」の部分で常に自分を取り巻くすべての事象と教義や実態を検証して、神の御心にはたして叶っているかを問う終わりのない作業が必要なんだよ信仰ってそういうものですよ
そうやって、どこまでいっても認識不可能な神だからこそ人間は最後に「神にすべてを委ね、神の計らいを信じる」しかなくなるんだよそうして、その委ね計らいの神の光の一部でもこの世界の投影することが実践といわれるものなんだよ霊界構造がどうだとか、そんなことを説いてくれることが神の条件でも信仰でもないんだよ
大川隆法は神だと100パーセント信じて疑わないということは、見方を変えれば、「自分は神を認識できる。神かどうかを判断できる」ということであって傲慢なことだ。
また、大川隆法を神だとすることは、「神とは大川隆法のような存在だ」と断言することでもあり、これは神に対する冒涜だろう。HS信者からしたら大川隆法は神々しく見えているのかもしれないが、傍からみたら「大川隆法と神様をいっしょにしたら、いかんだろう」ということになるのだからそういうことになる。
それから、100パーセントの信仰とは、言い換えれば完全な信仰ということであろうし、完全は神の属性で、人にはできないことなんだ。もしそれができるというなら、傲慢ということになるだろう。
100パーセントの信仰というのは、考えれば考えるほどおかしな考え方であって、ただのハッタリ、元気づけの言葉でしかないように思う。
100パーセントの信仰というのは、考えれば考えるほどおかしな考え方であって、ただのハッタリ、元気づけの言葉でしかないように思う。
*信仰とエゴイズム
これは聖杯と剣氏の言葉。
疑わずに100%の信仰を求めるのはキリスト教圏ではカルトだけだ。キリスト教もユダヤ教も健全な懐疑を容認する。だからこそ神無き時代における実存の神学やミルトン・スタインバークなどの「信仰の解剖」などのユダヤ神学の再解釈の作業が生まれたんだ。現代においては神の存在はもはや自明とはいえない。そして神の存在に懐疑を持つ事と、善き宗教者である事は全く矛盾しない。そして今日のユダヤ神学もキリスト教神学もその出発点からスタートしているんだよ。こんな事はキリスト教圏の知識層では当然の議論だ。少なくとも今日宗教について学ぼうとする人間でおよそ疑える要素満載の神の存在をどうして前提とするのかは各自しっかりと考えておかねばならない宿題なんだよ。神は存在する事に賛成するのか反対するのか、意見としては賛成・反対するが、科学的には不可知とするのか。君達はこういう知的伝統にも全く無知だから「信仰」ってのが根本的に分かっていないんだ。絶対的確信は狂信に過ぎない。信仰とはもっと知的な精神態度なんだよ。
例えばいかのように考えてみよう。聖書時代には神は人の問い掛けに直接答え、不義な者には神自ら罰を下された。その時神は絶対なる信仰を強調された。今はどうだろう。不義は地に満ち、神はそれに直接答えられず、人にこの地上に正義を実現される事を任され、神は直接手を下されようとはしない。ホロコーストの惨禍にすら神は沈黙を守られた。これは何を意味するのだろうか。もし絶対的確信に基いて神を信じる事が明示的に分かっていれば、人間は直接的に応答する神に従っていきるだけの存在であり、そこに自由意志は無くなる。即ち神を疑う事は人が神に従って生きるかどうかを自由意志に基いて選択する事ができる事を意味する。そして神を疑ってもなお神の示したモラルに従って生きる事を自由意志に基いて選択した時、この世界における倫理的公準は向上したと言えるのではないかな。だからこそ神は神はこの世界を倫理的に完成させる作業を人に委ねられたと言えるんだ。即ち、疑いつつもなお、倫理的に生きる事が重要なんだ。そして宗教の歴史が示すように、宗教の示すモラルに従って倫理的に生きていく中で、人は神の存在をあらゆる高邁なる価値の源泉の存在として感得する事に不自由さを感じなくなるんだよ。
信仰とはそうした知的作業が伴うものでモーセでもイエスでも大川さんでもいいが、誰かが言った事に飛びついて「おら信じるだ」とその人のいう事を無思慮に受け入れる事を信仰と言わないんだよ。第一それは①自分の信じたい事を言ってくれたから信じている可能性②それを信じることで自分に何らかの利得が生じる可能性をまるで否定しきれないんだから。すなわち自分のエゴイズムの投影を「信仰」と称している可能性をちゃんと検証しなきゃだめなんだ。ちなみに私は「神が存在すると考える」と問われれば「分からない」と答えるし「神を信じているか」と問われれば「思う」と答える。倫理的に向上を志して生きている人は価値の源泉としての神を受け入れる事はむしろ自然な事だと思うが、自然だからといってそれで「存在すると考える」根拠にする事はできない。存在の証明ができない以上神の存在の賛否はいつまでたっても不可知なままだが、不可知な中にこそ倫理的に神を選び取る事がクリティカルに重要で、その倫理に賭ける態度を「信仰」と呼ぶのだ。そして「不合理なれども我信ず」という言葉はこういう不可知な中から信仰を選び取る煩悶が理解できないと分からない言葉なんだ。君らは一生わかんないんじゃないか。
自分の見分の範囲でも、熱心な信仰者が、極端にエゴイストである場合は少なくないな。自分を正義の位置において、他人を悪者と決めつけて叩くことに躊躇しないとか。
「不合理なれども我信ず」というのは、不合理を承知の上で信じるという選択をしているのだから立派だ。これと比べて、HS信者の場合は、HSの教えは整合性があり、合理的なものだとしたうえで信じている人が多いのは残念。
HSには議論ができる人が少ないのも、たぶんこれが一因だろう。エルカンターレ信仰の不合理性を自覚しないから、トンデモ論理をまっとうな理論だと思い込んで語り、大恥をかくことになる。もっと信仰について真剣に考えればいいのにと思う。
HSには議論ができる人が少ないのも、たぶんこれが一因だろう。エルカンターレ信仰の不合理性を自覚しないから、トンデモ論理をまっとうな理論だと思い込んで語り、大恥をかくことになる。もっと信仰について真剣に考えればいいのにと思う。
*緘口令
これは信者氏と舞華氏の会話。
個人的に疑の心があってもいいが、それを公に言ったらダメなんだよ。それでは、人の信を奪うことになる。
そんなことないですよあなたたちの信仰を奪うつもりはないし、そんな力ももちろんありませんけどおかしいことはおかしいと判断する部分は大事と言っているだけです100%疑いなしじゃ、そういう検証すら放棄じゃないですか
HSは自由を尊ぶ団体だということになっているけれども、それは建前にすぎず、実際には、疑問を持つことは禁じられているし、それを口に出すこともできない。
もし口に出して、他の信者にも疑問を持たせることになったら、それは和合僧破壊という重い罪であり、地獄に堕ちるとされているからだ。だから、もし疑問に思うことがあったとしても、それは口に出すことなく、黙ったまま身を引いて、一人静かに反省せよということになる。
信者氏はこういうことを念頭において話しているのだろう。
*大川隆法とイエス・キリスト
ここでは、信者氏は大川隆法とイエス・キリストは変わらないとし、アンチ氏と舞華氏は違うと反論している。
大川先生が生き神様で、キリストは天の父(神)を信仰していたと言いたいのかも知れませんが、キリストも生きた人間です。死んだ後キリストを神とするのはいいが、生きていた時のキリストの言う事は聞かなくても良いのですか。キリストは預言者であると同時に救世主だったのです。過去の旧約聖書の解説人ではありません。そして死んでのち、その人を信仰したのでもありません。あなたは我を信ぜよ!と言っていました。大川先生と変わりありません。
イエスと総裁のどこも同じ所は無いよ。いい加減な事言うなよ。狂信者が。イエスは生きていた間、積極的に救世主とか言ってないだろ。しかもメシアという言葉の意味も今で言う救世主とは違って民族的な狭い意味だったそうじゃないか。
総裁とイエスさまが同じですか?イエスさまは5000人の飢えを救いましたけど・・・総裁は収奪で会員を飢えさせたことはあるかもしれませんけれど、救った話はきかないねイエスさまは「ラザロよいでよ」ですけど総裁が病気を治したことあるんですか?エル・カンターレふぁいとで死者が蘇りました?同じですか そうですか
両者は全然違うと思うけど、もっとも違うのは、イエスは十字架にかけられたときに、人々のために祈ったというところだね。
そのとき、イエスは言われた。「父よ。彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ 23.34)
これと比べたら、大川隆法はいつも人のせいにしてばかりだ。高橋信次霊のせいで法を曲げられたとか。きょう子夫人のせいで救世活動ができなかったとか。きょう子夫人は口が臭かった、結婚したくないのに無理矢理に結婚させられたとか、恥知らずなことばかり言ってる。
こういうところは、両者はまったく違う。というか、両者を比べること自体が不遜であり、おかしなことだ。
*HSを退会する人、しない人
これは、よく指摘されることだけど、本当にその通りだと思う。
舞華さんの書き込みを読ませてもらって、改めて思ったんだけど活動すればするほど、かかわればかかわるほど、脱会へのきっかけがあればすぐ気づくものなんだね本を読むだけだったり、言われるままに献金したりするだけで会内で人間関係築いてない人は洗脳に気づきにくいかもしれないな私の親(信者)には友達がいなくて、人からの評価に飢えていた。子供に聞くくらい飢えていた。子供はたいてい親を肯定するものだから、聞いたってためにならないんだけどね。いわゆるお外で働いたこともなくて、社会人経験もない。KKにひっかかる要件満載だ。
支部に通わず、活動に参加せず、HSとは無関係な一般人との交流も少なく、HS本を読むだけの信者は、自分の世界にどっぷりつかりきっていて、他からの影響は受けないわけだから、ずうっとそのまんまでいることが多いという印象はある。
これに比べたら、支部に通い、活動に参加していれば、HS本に書いてあることと、HSの実態との乖離に気づかざるを得ないし、教団外部の人との付き合いがあり、率直な意見を聞かせてもらう機会があるなら、教団のおかしさに気づきやすいだろう。
これに比べたら、支部に通い、活動に参加していれば、HS本に書いてあることと、HSの実態との乖離に気づかざるを得ないし、教団外部の人との付き合いがあり、率直な意見を聞かせてもらう機会があるなら、教団のおかしさに気づきやすいだろう。
*大言壮語
これは舞華氏の発言だけども、ほんと、総裁の大言壮語、放言は困ったものだと思う。
なんで嘘の数字を計上する必要があったのでしょうか?総裁は「自分は知らなかった」なんておよそ会を束ねるトップにあるまじき体たらくでしたけどそもそもすべては総裁のその場その場の無責任な発言が招いたことですそんな無責任発言のツケは誰が払うのでしょうか?
すべての日本国民を会員にしてみせると豪語したり、幸福実現党が選挙で圧勝するようなことを断言したり、地球規模の天変地異が来ると騒いだり…そういえば皇室は文化的存在としてなら残してもいいでしょうというような不敬発言をして、チャンネル桜で不興を買っていたこともあった。
霊言という形式をとると、一夫多妻とか、豊胸手術とか、放言といってもいいようなこともある。この無責任さは、まさに怖いもの知らずだ。
*的外れ
これは聖杯と剣氏と舞華氏の会話。
信者って全然関係ない事を一生懸命反論してくる人が多いんですよ。相手の主張に対してどういう事を言い返せば反論が構成されるのかまるで理解できていない。
この人たちの反論ってさ、わたしたちに向けて言っているわけじゃないと思います動揺している会員さんや世間に向けて一生懸命あさってな言い訳しているだけなんじゃないかなそうじゃなくて、真剣にわたしたちに向けて言っているんなら、バカ丸出しとしか言いようがないですけど・・・
随分前のことだけど、匿名掲示板で信者と話すのに疲れてしまって、愚痴ったことがあった。「信者はいっつも的外れな反論ばかりしてくる。自分の真意はこれこれこういうことですよと繰り返し説明しても、さっぱり話は通じない。でもじきに、ようやく通じたという感触があると、信者は途端に黙って何もいわなくなる。でも少しするとまた同一人物らしき信者が、的外れな反論をしはじめる…。もう、やだ…」と。
すべての信者がこうではないのだろうけれども、言葉が通じにくい人は、ほんとやっかいだ。合わない人とは距離をおくべしという考え方があるけど、ネット上では多分これが正解だ。