*自己流解釈
「ヨブ記」について、HS信者が感想文を書いていたので読んでみたのだが、正直言って自己流解釈に傾き過ぎているように思えた。
*基本設定
あれこれツッコミを入れても仕方がないので、論点を三つほどにしぼって書くと、まず一つ目は、災いはサタンの仕業で、神によるのではないとする解釈は無茶だということである。
そもそも、「ヨブ記」の信仰観はこうだろう。
主は与え、主は奪う。(ヨブ 1-21)
神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。(ヨブ 2-10)
岩波文庫の注釈にはこうある。
ヨブに下される試練はヨブには知られないが神の意思に出たことで、ことに神と「敵対者」の間に賭けられた問題であった。(『旧約聖書 ヨブ記』関根正雄訳、岩波書店、2017年、p.166)
一部の表現、言い回しを根拠にして、こういう基本設定を拒否しようとするのは自分勝手解釈といわざるを得ない。
*HS的な解釈
憑依がどうしたこうしたというのはHSではよく言うことだけども、「ヨブ記」にはそういうことは書いていないだろう。HS教義をつかって「ヨブ記」を読んでも、そこから生まれるのは「ヨブ記」のHS的解釈にすぎず、それは本来の「ヨブ記」とはちがったものだ。
「ヨブ記」は、「ヨブ記」によって読むべきであって、HS教義によって読んでも仕方ない。このことは、HS本は、HS教義によって読まないと、本来の意味を読み取れなくなることを思えば容易に理解できるはずだ。
*友人たちの評価
ヨブの友人を高評価するのは自由ではあろうが、神の評価はこうなっている。
「わたしはお前とお前の二人の友人に対して怒っている。お前たちは、わたしについてわたしの僕ヨブのように正しく語らなかったからだ」(ヨブ 42-7)
神がヨブの友人たちをバツ判定したということは、「ヨブは正しい人だったが、神から試練を与えられ、そのことを理解しない友人たちから、あらぬ非難を受けてさらに苦しんだ」とすれば合点が行くけれども、「ヨブは自分自身の過失によって災いを受け、そのことを友人から指摘されると怒り、神を呪った」とすれば意味が通じなくなるだろうと思う。
また参考として書くと、内村鑑三の「ヨブ記講演」では、苦境にある人に面と向かって、それは罪の報いだというのは人情に反するし、罪の報いとして災いがあるとしても、災いのすべてが罪の報いとは限らないことは、イエス、パウロの例をみればわかるし、ヨブの災いは罪によるのでなく、信仰の試し、試練であろうとしたうえで、ヨブの友人たちには辛い評価をしていた。
*まとめ
自分の直感に従って読むということは、必ずしも否定されるべきことではない。でもその場合であっても、基本設定や定説との距離は自覚しているべきであるし、先人の解釈に対する敬意も必要だ。それがなければ、ただの勝手気ままな自己流解釈とされても仕方がない。ここはよくよく注意すべき点である。
HSでは、仏典でも、聖書でも、なんでもHS式に解釈してしまいがちだし、仏陀は生まれ変わるものだとして仏教の根本的な設定さえも、ひっくり返してしまっている。だからその信者が同じようなことをするのも止むを得ないことではあろうが、これはある意味、法を曲げることであるし、慎むべきことであると思う。