*遅ればせながら
 「ヨブ記」について、Wikipediaの解説を読んでみた。もしかしたら前記事で書いたことを修正しなければならないかもと心配したが、どうやらその必要はなさそうだ。ひと安心。

 
 以下に、論点を三つにしぼって、自分なりの感想を書いてみる。


*テーマ
 まず「ヨブ記」のテーマについては、Wikipediaには次のように記されていた。
正しい人に悪い事が起きる、すなわち何も悪い事をしていないのに苦しまねばならない、という『義人の苦難』というテーマを扱った文献として知られている。 
 これは前々から聞いていた話ではあるが、迂闊ながら、「義人の苦難」という言葉は知らなかった。この言葉は覚えておきたい。
別の注釈では、『ヨブ記』は勧善懲悪の問題に対する解答をはぐらかしているのではなく、神の権威を示すことこそが同書の本義なのであり、その思想は後半部の自然界、動物界に関する描写に反映されていると述べている。また、人間同士の議論を経たところで神の営みを理解することは不可能であり、とにかく人間は、神の崇高さを前にしては謙虚に振舞い、些細な事にも気を配らねばならないと説いている。 
 前記事で、「ヨブ記」は神の絶対を描こうとしているのではないかと書いたが、やはりすでにそういう解釈はあるようだ。自分が思いつくようなことは、とっくの昔に誰かが考えているということなんだろうな…。
 ただちょっと気になるのは、神は不可知で、その神を前にしたとき、人は頭を垂れるしかないというのは分かるとしても、その前段階についてはどうすべきかということだ。
 自分としては、人は神の前に頭を垂れることしかできないのは当然としても、はじめから神は不可知だとあきらめて、ただただ頭を下げればいいというわけではなくて、神を知ろうと精一杯に努力したあとでそうすべきだと思う。「人事を尽くして天命を待つ」というように、「人知を尽くして天命を待つ」ことが大切ではないかと。
 ヨブはこれを実践したあとで、神の前に頭を垂れているから立派であるが、もしはじめから神の前にひれ伏していたなら、それは謙虚ではなく、卑屈であり、神を喜ばすことにはならなかったのではなかろうか。


*サタンと因果応報  
三人の友人はエリファズを筆頭に、慰めを兼ねて因果律を説く。三人の友人の主張は、前述のサタンの主張と関連[13]しており、神は正しい者に祝福を与えて罪を犯した人に災いを与えるという因果応報の原理(因果応報は、倫理観を引き出す強い力になるが、社会的弱者や病人には過酷である。)を盾に、元の境遇に戻るために、ヨブが罪を認めて神の信仰に戻ることを求めるというものであった。 
 因果応報という考え方は、弱者に対しては冷酷なものになるというのはその通りだ。自己責任という考え方もそうだ。
 因果応報は自分に対する戒めとしてはよいこともあるが、三人の友がヨブにしたように、他者を裁く道具として使った場合は酷いことになる。
仮にヨブが罪を認めて元の境遇に戻してもらうよう祈った場合、利益のための信仰でありサタンが勝利する。
 これは一理ある。
 三人の友のいうことは御利益信仰に通ずるし、ヨブがこれを受け入れたら、サタンの見立ては正しかったことになる。
 三人の友の主張と、サタンの主張とを関連付けて考えたことはなかったけど、それと指摘されれば、たしかに両者には相通ずるものがある。
エリファズは、塵から災いは出てこないとヨブの主張を否定して[41]、地上的な願望のために神との和解を求めている。
 「地上的な願望のために神との和解を求めている」というのは、あきらかに御利益信仰であろうし、純粋な信仰とはいえまい。
 そういえば、仏典には、ブッダが悪魔に次のように言う場面があったのだった。
四三一 わたくしにはその(世間の)善業を求める必要は微塵もない。悪魔は善業の功徳を求める人々にこそ語るがよい。

(『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳、岩波文庫、1985年、p.88)
 宗教のなかには、これを信じれば功徳がある、こうすれば天国に行ける、地獄に堕ちないためにはそれはしてはいけない…云々ということを説くところもあるが、ヨブも、ブッダも、これに賛成することはなさそうである。


*感謝
 古典を読むときによく感じることだけども、先人たちの研究は本当にありがたいものだ。お陰様で自分のようなものでも、古典の奥深さに気づくことができる。もし先人たちの研究がなかったら、迂闊者の自分は、古典の価値は少しも気づけなかっただろう。この点は心から感謝したいと思う。