「第十一講 エリパズ再び語る」を読んだので、要点をメモしておきたい。
  • 「第十五章の研究」
  • ヨブと友人たちとの議論の主題は、「患難はすべて罪悪の結果なるか如何、義しき者に患難の下る理由如何の問題である」
  • 「第一回戦においては、彼らはなるべく穏かなる語を以てヨブを責め、彼らに責めらるるヨブはかえって真理の閃光を発しつつ、徐々として光明の域に向って進むのである」
  • 「心霊のことにおいては人は一人一人独立である。神と彼と二者相対の上に心霊問題は生起する。年齢の権威も地位の権威も、この間に圧迫の力を揮うことは許されない」として、宗教問題における平等、公平を徹底している。
  • 因果応報という考え方に対する強い拒否感を露わにして、「要するにこれ悪人必衰必滅という陳腐なる教義の主張に過ぎぬのである」「すなわち悪人は苦悶を以て一生を終え、困窮失敗の中に世を去り、その家族もまた零落すというのである。同時にこの語は苦悶、困窮、失敗、零落はすべて罪悪の結果であるとの意味を含んでおるのである」としている。
  • 悪人と善人の違いは境遇にあるのでなく、その心(罪の意識?)にあるという。「神を嘲る悪人にして成功また成功の一路を昇る者は決して少なくない。神を畏れず人を敬わざる不逞の徒にして、何らの恐怖煩悶なくして一生を終る者はむしろ甚だ多い。罪を犯し悪の莚に坐して平然たるがすなわち悪人の悪人たるゆえんである。悪人の特徴は煩悶恐怖を感ぜざる所に在る」「恐怖苦悶はその人の心霊的に目ざめたるを示すものである。神を知らざる時我らに真の恐怖なく、痛烈なる煩悶はない。怖るる事、悶ゆる事、それは神に捉えられた証拠である。そして救拯と光明へ向ての中道の峠である」
  • ヨブの友人たちについては、「我らはくれぐれもエリパズら三人の心を学んではならない」と注意喚起している。
 私見ながら、こういう文章を読むと、因果応報という考え方は、現実に合わないのはもちろん、非常に不公平、理不尽なものであり、道義的にもよくないものだと改めて思う。
 こう書くと、「因果応報は、この世だけで見るのでなく、過去世、今世、来世を通して見なければ分からないものだ」という反対意見もあるだろうが、それにしたって、因果応報を真としているかぎりは、それに輪廻転生をくわえても、くわえなくとも、逆境にある人に対して「艱難は罪悪の結果だ」として責める構造に変化はないのだから、ヨブ記の議論の繰り返しにしかならないし、ヨブ記の議論では神の絶対性を信じるときに因果応報はナンセンスなものになるという結論が出ているのだから仕方がない。日が昇れば朝露は消えるように、神の絶対性を信じれば因果応報にしろ何にしろ神以外のものはすべて空しいものにならざるを得ないのである。