内村鑑三選集〈別巻〉内村鑑三を語る

*人物評いろいろ
 年末年始は内村鑑三選集を読もうと思い立ち、まずは別巻を開いてみたのだが、多くの人々による内村評(同時代を生きた者によるもの)を集めたというだけあって、さまざまな意見を知ることができて愉快である。
 本書に収録されている文章の著者らの立場は、大雑把に言えば批判者、弟子、友人に分類できるようだが、批判者には、信仰について真面目な問いを発する松村介石のような者もいれば、現代のネット上の誹謗中傷のように悪口三昧の正岡芸陽や評論子のような者もいるし、弟子のなかには、内村鑑三を崇拝、心酔しきっている者もいれば、尊敬はしつつも独立した自己を保っている福田英子、志賀直哉のような者もいるし、世の中には本当にいろいろな人がいて、いろいろな考えを持っているのだなと感心させられる。
 また友人の場合はどの人物も立派ではあるが、キリスト者かそうでないかによって話の内容の深浅濃淡には大分ちがいが出ている。やはりここでも、ものの見方、考え方は、人それぞれということのようだ。
 内村鑑三という一人物について、これほど異なる意見があるとすれば、人を超えた神について人々の意見はさまざまで決して統一されたことがないというのも致し方ないことなのかもしれぬ。


*滑稽さの自覚
 私見ながら、本書のなかでもっとも個性的かつ面白いと思えた文章は、「ある日の出来事」(藤沢音吉)だった。おしるこのエピソードは微笑ましく思わないではいられないし、内村鑑三の情の深さを語った後で「お顔に似合はぬやさしい方でありました」という定番のオチがついている話も笑わないではいられなかった。
 また、内村鑑三は自身をドン・キホーテに見立てて話したことがあったらしいが、これはその人となりについて考えさせるものがあって興味深い。
「音吉、お前と俺のことを詳しく書いたらドン・キホーテ以上の面白いものが出来るなあ」と仰いました。ドン・キホーテとはどんな物語だか知らなかつたので、さっそく本を買つて読んでみました。

(『内村鑑三を語る(内村鑑三選集 別巻)』鈴木範久編、岩波書店、1990年、p.243)
 この言からすると内村鑑三は音吉のもっているユーモアはもちろん、自身の生真面目さの中にある滑稽に自覚的だったのだろうし、この滑稽を承知の上で生真面目であり続けたというのはすごいことであると思う。


*社会主義者
 あとは、上とは正反対に、もっとも悲劇的に思えた文章は、「内村鑑三先生に上る書」(福田英子)だった。著者は社会主義者であったために破門されたそうで、文章全体に悲しみが満ちていて読むと泣けてくる。
 ちなみに、著者について検索してみると、Wikipediaにはこうあった。 
内村鑑三の角筈の自宅で行われていた角筈聖書研究会に出席し聖書を学んだ。しかし、1907年に、社会主義に批判的であった内村から突然聖書研究会への出席を拒否された。直後、福田は1907年3月15日の『世界婦人』(『新紀元』の後継誌として石川三四郎と福田英子で始めた雑誌)6号に「内村先生に上(たてまつ)る書」を書き、社会主義とキリスト教の神の摂理は一致しているのではないか、心霊上の及第にまさって物界の救助をはかることが神の真意にかなうものではないかなどと述べて、内村に対し教示を求めた。[3] 

 「来歴」を読むと凄まじすぎて思わずたじろいでしまうが、それだけ真剣に生きたということなのだろうと思う。