*まえおき
 ヨブ記に関する一連のツイートを見つけたので、ここに感想をメモしておきたい。
 これらのツイートは、昨年12月30日あたりから、数日にわたって書かれていて数が多く、そのすべてに感想を書くのは難しいので、特に印象に残ったものについてだけ書くことにする。


*ヨブ記の論理
 まず、ここではヨブ記全体が簡潔にまとめてあって有り難い。
 ヨブ記は、冒頭部の神と悪魔のやりとりなど、トンデモに思える場面も無きにしも非ずだが、それでも物語の中の論理としては筋が通っているところは魅力である。トンデモなのに筋が通っているというのは、ひどく矛盾しているようではあるが、それだからこそいい。


*キャラ設定?
 ここに書いてある「ヨブの強気は必要な演出」とは、つまり、「ヨブの強情はキャラ設定である」ということだろうか。
 演出といえば、冒頭部で、ヨブは義人であったということが強調されているのも、「義人の苦難」という不条理さを際立たせるための仕掛けなのだろうと思う。
 ちなみに、これと似た演出は映画でもよく使われている。たとえば復讐ものでは、こういう展開はよくある。
  • 主人公は善人であり、友人知人からも信頼され、妻子とともに幸福に生活している。
  • ところがある日、主人公が遠出をしているときに、家で留守番をしていた妻子が惨殺されてしまう、何の罪もないのに。
  • 主人公は復讐の鬼となり、犯人一味を追い詰めてゆく。
 そういえば、「鬼滅の刃」でも、これと似た構図になっていた。冒頭部で主人公の善良さを強調することで、その後の悲劇の不条理さを際立たせるという手法。


*屁理屈
 これは自分にもよく分かるなあ。本当にその通りだ。
 宗教教義は破綻と補正の繰り返しだとか、因果応報は人の一生だけでなく、過去世のカルマや来世(死後)の裁きを仮定すれば辻褄を合わせられるというのは、過去に、とある新興宗教を信じていた自分としては、大いに思いあたるものがある。
 どうにも解決不能な問題については「神は人間の推理を超えた存在だ」とすればけりをつけることができるというのも分かる。自分は宗教を信じていたころも、退会後も、相変わらずこの論法を濫用しているので。


*因果応報の限界
 「神と悪魔のイタズラ」「お伽噺的設定」とは、すごい表現だが、話の内容については、その通りだと思える。
 神が悪魔の挑発にのせられてヨブを苦しめることをよしとする場面は、あまりの不条理さに呆れてしまうのではあるが、「因果応報説が成り立たないこともある」というテーマを強調するための舞台設定としては合点が行く。ヨブの苦しみが不条理であればあるほど、このテーマは際立つだろうから。
 こういう見方はヨブ記を神聖視する熱心な信仰者からは反感を買いそうではあるが、これはつまりヨブ記の作者は、宗教家、思想家としてはもちろん、物語作家としても素晴らしかったということなのだろうと思う。
 以上、一連のツイートにはこの他にも興味深い論点が語られているのだが、とりあえず本記事ではここで一区切りとしたい。