ヨブ記に関する一連のツイートを見つけたので、ここに感想をメモしておきたい。
これらのツイートは、昨年12月30日あたりから、数日にわたって書かれていて数が多く、そのすべてに感想を書くのは難しいので、特に印象に残ったものについてだけ書くことにする。
中村圭志 神話・宗教学@seattlelubbock結局「ヨブ記」が描いているのは、①たとえ絶対神を信仰しても納得がいかない不条理が存在すること、ヨブは②人間らしく理由をぎりぎりまで問うたが、③不条理の事実を受け入れ、④自己の基盤を呪わず、しかし⑤世間の因果応報説の言いがかりには徹底抗戦した、ということです。筋は通っています。
2021/01/01 11:17:40
中村圭志 神話・宗教学@seattlelubbock色々ご質問があったので、フォロウしましょう。Q神父が言った《ヨブは神の前に自己主張しすぎた》というコメントについて? Aヨブが単に謙虚だったらそもそも「ヨブ記」が書かれる意味がない。ヨブの強気は必要な演出であり、背景には神観念の歴… https://t.co/qPaedoGfee
2021/01/04 17:23:50
- 主人公は善人であり、友人知人からも信頼され、妻子とともに幸福に生活している。
- ところがある日、主人公が遠出をしているときに、家で留守番をしていた妻子が惨殺されてしまう、何の罪もないのに。
- 主人公は復讐の鬼となり、犯人一味を追い詰めてゆく。
中村圭志 神話・宗教学@seattlelubbock宗教教義は破綻と補正の繰り返しだとか、因果応報は人の一生だけでなく、過去世のカルマや来世(死後)の裁きを仮定すれば辻褄を合わせられるというのは、過去に、とある新興宗教を信じていた自分としては、大いに思いあたるものがある。神学の歴史は破綻の歴史です。素朴に神を信じていたら、神概念に矛盾がたまってきた。そこで神学者が新たな神学をひねくりだす。「ヨブ記」が暗示する因果応報の破綻は、とりあえず「死後・終末後の審判」の発明で回避できます。善人がこの世で不幸になっても来世が幸福なら因果の帳尻があうからです。
2020/12/31 12:57:06
中村圭志 神話・宗教学@seattlelubbock終末思想があれば、宗教の因果応報思想の破綻はいちおう回避できます。しかしそういうアンチョクな方向で満足できない人は、因果応報の問題点にこだわり続けるでしょう。「ヨブ記」自体は、「神は人間の推理を超えた存在だ」というオチで逃げ切っていますが、それで解決ついたことになるのやら?
2020/12/31 12:57:25
中村圭志 神話・宗教学@seattlelubbock神が悪魔の挑発にのせられてヨブを苦しめることをよしとする場面は、あまりの不条理さに呆れてしまうのではあるが、「因果応報説が成り立たないこともある」というテーマを強調するための舞台設定としては合点が行く。ヨブの苦しみが不条理であればあるほど、このテーマは際立つだろうから。そもそもは神と悪魔のイタズラなのですから、ヨブのほうが正しいわけです。善因善果・悪因悪果の因果応報を信じている友人たちのほうが間違っている。「ヨブ記」に哲学的側面があるとすれば、この「因果応報説が成り立たないこともある」というお伽噺的設定がそれです。人間の推理が及ばないこともある
2020/12/31 12:51:42
こういう見方はヨブ記を神聖視する熱心な信仰者からは反感を買いそうではあるが、これはつまりヨブ記の作者は、宗教家、思想家としてはもちろん、物語作家としても素晴らしかったということなのだろうと思う。
以上、一連のツイートにはこの他にも興味深い論点が語られているのだが、とりあえず本記事ではここで一区切りとしたい。