「第十二講 ヨブ答う 終に仲保者を見る(上)」の要点を抜き出しつつメモ。
- 第十六章の研究
- 「「汝らは皆人を慰めんとてかえって人を煩わすものなり」は原語を直訳すれば「汝らは人を苦しむる慰者なり」となる。慰者とは名のみで実は人を苦め煩わす者であるとの意、強き嘲りの語である」
- 「この怨語を聴きたる三友は、ヨブを以て神を謗る不信の徒となしたのである」「しかしこれ冷かなる批評家よりもかえって神に近きを示すものである。かく神を怨みてやまざるは、神を忘れ得ずまた神に背き得ざる魂の呻きであって、やがて光明境に到るべき産みの苦みである。神を離れし者または神に背ける者は神を忘れ去る者であって、神を怨み得ないのである」
- 「神に対する怨言は、懊悩絶望の極にある心霊の乱奏曲である。かくの如き悲痛を経過して、魂は熱火に鍛われて、次第に神とその真理とに近づくのである。これ心霊実験上の事実である。この実験なき浅薄者流はこれを解し得ずして、エリパズらの過誤を繰返すのである」
- 「人は神にも友にも棄てられしと感ぜし時は、大地に向って訴え、わが血に向って我の証人たれと願うほどに至るのである」
- 「二十節に言う「わが友は我を嘲る、されどもわが目は神に向いて涙を注ぐ」と」
- 「友に棄てられて全く己一人となりし時、茫々たる宇宙ただ神と我のみあるの実感に入りて、初て神と真の関係に入り得るのである。しかして後また友誼を恢復して、これを潔め得るのである」
- 「人は己の無力を覚るとき、強くして力ある我の代弁者を求めざるを得ないのである」
羽仁もと子がヨブは神を信じているからこそ恨み言を述べているとしていて、はっとさせられたのだが、この点についてはこの講を読んでさらに納得できた。
そういえば以前、キリスト教批判の是非について、とあるクリスチャンに問うたら、批判するということは関心があるということだから無関心よりずっとよいとしていたのだった。
熱心な信仰者のなかには、宗教批判したら、即、不信仰者だと決めつける人もいるが、事実はそれほど単純ではないということだろう。