『母』三浦綾子著
 小説『母』を読んだ。あらすじは、息子(小林多喜二)の身を案じる心優しい母は、多喜二の死のあとは世の中の不条理にもだえ苦しみ、やがてキリストを信じるようになるというものである。
 個人的には本作でもっとも心に残った部分は次の四点だった。
 まず一つは、母が苦しみを乗り越えて信仰に目覚める部分だ。息子の死に直面して、「多喜二みたいな親思いの、きょうだい思いの、貧乏人思いの男が、あんなむごい死に方をするべか」(H21 p.184)と考え、「神も仏もいるもんか」(p.185)とまで思いつめた母親がキリストを信じるに至る過程は読みごたえがあるし、ヨブ記に通ずるところもある。信仰があればこそ不条理には苦しめられるが、この苦しみは信仰によるのでなければ乗り越えられないのだろう。
 もう一つは、最後の「イエス涙を流し給う」のくだりである。作中には「生きてる時も死んだ時も、イエスさまと一緒だってことわかれば、イエスさまの立派なお弟子さんですよ」(p.211)という牧師の言葉があるが、これは「浜辺の足跡」に通ずる考え方であろうし、人が涙を流すとき、キリストは共にあってそのすべてを理解しており、このことを実感することで人は安らぎを得るということだろう。
 三つ目は、小林多喜二は貧しき人々のために尽くしていたが、それゆえに拷問され殺されたとして、キリストと重ねているところである。自分は小林多喜二についてはほとんど何も知らないのではあるが、こういう話を聞くと、どんな人物だったのか興味がわいてくる。
 四つ目は内容ではなく、形式についてだけども、本作で無学な母が我が子の多喜二について語るという設定にしてあるのは、うまい工夫だと思う。これによって共産主義や当時の多喜二を取り巻く状況について深入りすることなく、母の見聞きできた範囲について素朴な言葉で語ることになり、とても読みやすく共感しやすい作品になっている。
 多喜二について書こうとすれば膨大な資料を読み込まなくてはならないだろうが、母親の視点から多喜二を書こうとすればそういう手間は大幅に省けるだろうし、イデオロギーの枠を超えてより多くの読者を期待できることになる。こう考えてみると、一つのテーマについて書こうとするとき、視点の置き方一つによって、書き手の労力や読者の範囲は大きく変わってくるということが実によく分かる。
 以上、本作を読んでもっとも心に残ったことを四つに絞って書いてみた次第である。
 なお小林多喜二の命日は2月20日とのことである。奇妙な偶然だが、先日、何気なく本作を手に取り、命日前に読み終えることができて良かったと思う。