*心に残った箇所
『国民の歴史』は、新しい歴史教科書をつくる会がよく話題にされていた頃に一度通読したきりで、今はもう巻頭の写真をみて円空はすごいと思ったことくらいしか記憶に残っていないので、ひさしぶりに読み返してみた。通史というより、歴史エッセイ集のような体裁なので、どこから読み始めてもよいのはありがたい。宗教絡みでは二点ほど心に残った箇所があったので、ここにメモしておく。
*聖なるもの
まず一つは、「GODを「神」と訳した間違い」にある「大樹の下にただずむのは私も好きだが、ときに言いしれぬ、ぞっとする恐ろしさを覚えることがある」(平成11年 p.387)という文章だ。この感覚は自分にもある。大樹はもちろん、海山川岩石にも同様の感じを受けることはある。
著者によれば、「この「ぞっとする恐ろしさ」が、他でもない、ルードルフ・オットーの有名な「聖なるもの」の定義に属する。「戦慄すべきもの」あるいは「薄気味わるいもの」あるいは「妖怪的なもの」の感覚から聖なるものの領域の気配がはじまるというのである」(p.387)とのことである。オットーの『聖なるもの』は読もう読もうと思いつつも読んでいなかったのではあるが、こういう話を聞くとますます読みたくなってくる。
*キリスト教の敗北
もう一つは、「キリスト教の敗北」についてである。著者によれば、ザビエルは日本での布教活動においては、民衆にむかってキリスト教を知らずに死んだ祖父母らは救われないと「断固厳しい断定をし」(p.396)たのだったが、近年の「第二回ヴァチカン公会議」では「世界の情勢にあわせて世俗化の傾向を強め、異なる宗教との妥協と調和を図る方向へ教義を改訂した」(p.395)としており、これは「キリスト教の敗北」だというのである。これに対してはドイツ人から「あなたの方が私たちよりもずっとキリスト教徒だ」と評され、大笑いになったそうだ。
著者の宗教観は、「こうした原理主義的な自己への明確な規定は、宗教の本来の性格からしてあたりまえのことであり、すべてを曖昧にする寛容さのほうがむしろ例外である。非寛容は宗教の特性ですらある」(p.395)というものらしいので、上のような結論になるのも当然ではある。
*宗教と人情
ちなみに自分はどんな宗教観をもっているかといえば、下のような文章に感動するクチである。
ああ、そん時近藤先生に、「多喜二は天国にいるべか」って聞いたら、「あのね、お母さん。聖書には『この小さき者になしたるは、すなわち我になしたるなり』という言葉があるんですよ。チマさんからも聞いていますが、多喜二さんはずいぶんたくさんの貧しい人に、いろいろ親切にして上げたそうですよね。『小さき者』というのは、貧しい人ということですね。名もない貧しい人に親切にすることは、イエスさまに親切にすることなんですよ。多喜二さんが天国にいないとは思えませんよ」うれしかったなあ。多喜二に会える。多喜二に会える。うれしかったなあ。(『母』三浦綾子著、角川書店〈角川文庫〉、平成21年、p.214)
これは小林多喜二の母が、洗礼を受けておらずキリスト信者ではない多喜二は天国に行けたかを心配したところ、親切な人なら信者でなくても天国にいないわけがないといってもらって慰められるという場面だけども、自分にはこれこそ宗教の役割であるように思われる。ただここでは「多喜二さんは天国にいる」と言い切らず、「多喜二さんが天国にいないとは思えませんよ」と若干含みを持たせてるところは、著者の微妙な立ち位置が想像されるのではあるが。
宗教と人としての情緒が完全に重なっていれば上のような問題は生じないのだろうけれども、そういうことはまずないのだから、情緒豊かな人ほど宗教を信じようとする場合は、宗教と人情のどちらをとるかという問題から逃れることはできず、やっかいである。この点、多くの日本人が無宗教なのは賢明なことだと思う。