先日、椎名麟三の本を読んでみようと思い立ち、「私の聖書物語」を読んでみた。自分には難しい本だったが、共感できるところも多かったので以下にメモしておきたい。
*愛すること
愛というものは、最後には愛しているというより仕方のないものであるからだ。愛は、愛それ自身をもってしか説明できないものなのだ。というのは、愛は、どんな理由も必要としないだけでなく、むしろすすんでそのような理由を拒むものであるからだ。(『椎名麟三全集15』「私の聖書物語」、椎名麟三著、冬樹社、昭和49年、p.344)
愛がどうしたこうしたと言うのは気恥しいものであるが、このくだりを読んで、随分前に大恋愛中の友人がこんなことを言っていたのを思い出した。
「相手に、自分のどこを愛しているかと聞いたとき、ここが好きとか何とかいったら、それは本当には愛してないってことなんだぞ。本当に愛してたら、ここが好きとか、こういうところを愛してるとか、そんなことはいえないもんなんだ」
こんな彼が上の文章を読んだら、「その通り!」と喜びそうである。
*自由と愛
また著者は、自由についても次のように書いている。
愛というものは、究極には理由のないものであるならば、自由というものも究極には、理由のないものなのである。(同上、p.344)
自由も、愛と同じく、ああだこうだ言っても仕方のないことなのだろう。ただ、ああだこうだ言っても仕方ないと分かってはいても、ああだこうだ言わないではいられないのだから仕方がない(笑)。
*人間はすべて許されている?
キリーロフは、小さいとき見た木の葉について話す。それは日光に葉脈がすいてキラキラと美しかったというのである。スタヴローギンは、それは何の意味だい、とたずねる。勿論意味なんかない。キリーロフは、そう答えて、人間はすべて許されているのだというのである。(同上、p.361)
これは、ドストエフスキーの「悪霊」についての文章である。
「悪霊」は、ウン十年前の夏に汗をかきながら読んだ覚えはあるものの、その内容はきれいさっぱり忘れてしまっているので、上の文章については自分は何も言えない。
でも、「人間はすべて許されているのだ」という言葉には、はっとさせられた。これは前々から考えているテーマなので。
*信仰と許し
許しについて、本書では次のような文章もある。
キリストを信じない人にははなはだ申し訳なくて申し上げかねるのだが、その人さえも実はキリストにおいて救われてあるのである。また私に叱責の手紙を下さった熱心派の方々にはまことにお気の毒であるが、イエスをキリストとして信じられなかった私も、驚いたことにキリストにおいて救われていたのである。その事実が私をいつも震撼させるのだ。(同上、p.401)
宗教では、信じれば救われる、悔い改めれば許されるという具合に、許され、救われるには一定の条件があると説くことが多いのだが、著者はそれとはちがう考えらしい。
ちなみに自分も、信仰や悔い改めなど、何らかの条件を満たしてはじめて許され、救われるというのではないように感じられる。それらによって許され、救われるというよりも、それらによってこそ許され、救われていることに気づくことができるというのが本当ではないかと思うのである。
*神義論
神が、キリスト教のいうように全能だとするならば、アダムとイブが禁断の木の実を食べたのも神のせいである。何故なら人間の一切やこの世の一切を決定しているのが神であるなら、禁断の木の実を食べることも神において決定されていたことにちがいないからだ。だがもし禁断の木の実を食べるということだけは、神の決定から逃れ出ていて、神の知らないことであったとするならば、そんなぼんくらは、神でも全能でもあるわけはないではないか。(同上、pp.370-371)
これは上と同じく、自分には興味深いテーマだ。
神は全能であるとすれば、どうしても考えないではいられないことなので。
*信じないけれども信じている
「それが実に全くほんとうに困ってしまうんですよ。お前は信じているんだとおっしゃるなら信じているんですし、信じていないんだとおっしゃるなら信じていないんだからです」「どちらがほんとうなんだ!」「ところが全く困ったことにどちらもほんとうなんです。つまりその二つは、実に平和に共存しているわけなんですよ」(同上、p.374)
これは奇跡を信じるか、信じないかという話であるが、著者のなかではこの二つが「平和に共存している」そうである。
これは自分も同じだ。奇跡なんかないだろうと思いつつ、奇跡が起きたら起きたで、そういうこともあるだろうとさほど抵抗なく受け入れることはできる。
あれこれ見て、あれこれ考えた上で、どうやら神は存在しないようだと結論づけたとしても、神を信じて祈ることにさして抵抗はない。
我ながらおかしなことだけれども、こういう矛盾は平気である。何かの本で野蛮人かどうかは矛盾に無頓着であるかどうかによるという話を読んだ記憶があるが、この基準からすればどうやら自分は野蛮人であるらしい(笑)。
*人であり、神であるということ
荒本さんの反逆は、イエスを神として、人間であることを捨象したキリスト教に対する反逆だったのだと思う。私は、イエスをキリストとして信ずる者であるが、キリスト教界のことはあまりよく知らない。だがおそらく荒本さんの反逆したくなるようなものが、少なくとも荒本さんの所属していた教会にあったのではないかと推測されるだけだ。ただ荒本さんは、そのイエスの人間を強調しすぎたのである。(同上、p.439)
著者によれば、荒本さんは「熱心なクリスチャン」でありつつ、「イエスが、人間であってなぜわるい、とか、マグダラのマリアに恋愛していてなぜわるいとかいって、キリスト教の偽善は、イエスを神の子とするためにイエスの人間性を無視していることだ」と主張して教会から離れ、マルクシストになり、「アンチ・クリスト」という論文を発表するようになった人であるが、やがて病に倒れ、最期のときには「おれは、神を信じていたのに…」と言い残していったという。
著者は、イエスは人であり、神であるので、どちらか一方の見方に偏することに注意喚起しているようであるが、近頃の自分の関心は、信仰上のイエスより、歴史上のイエスに大きく傾いているので耳に痛い話ではある。
*これから
椎名麟三の本は、以前、とあるクリスチャンから勧められて一冊読んだきりだったのだが、今回改めて読んでみると難しくて分からないところもあるが、著者独特の思考と語り口によって様々なことを教えてくれ、読みごたえがある。つづけて他の著作も読んでみるつもり。