20201218 (1)『人間であること』田中美知太郎著

*自由の定義
 『人間であること』に収録されている「自由の意味」を読んだ。これは七十年代の講演録とのことであるが、その内容をメモしておきたい。
 まず著者は、自由について次のように定義している。
「自由」とは何か。これをいろいろなふうに定義しますけれども、最もそのものずばりで言うと、自由というのは「言いたいことを言い、したいことをすることができる」ということでしょう。

(『人間であること』「自由の意味」、田中美知太郎著、文藝春秋、昭和59年、p.120)
 著者によれば、これはプラトンの「国家」第八巻による定義とのことである。


*現実
 次に著者は、自由とは「言いたいことを言い、したいことをすることができる」ことであるが、現実には「自由社会」といえども、皆がそのような自由を行使できるわけではないとしている。
つまり現実としてわれわれは、決して自由ではないし、自由ではありえない。これをはっきりと認め、そして今日の社会というものを考えなければならないわけです。

(同上、p.123)
 自由は何でも好きにできることではあるが、現実としてそれは不可能であるから、自由はある程度は規制、制限されることになるというのは当たり前のことではある。


*自由の基本的な意味
 著者によれば、古代ギリシアにおいて、自由の基本的な意味は二つあり、一つは国家の独立であるという。古代社会では、外国から侵略、支配されるということは、殺されるか、奴隷にされることであったので、自由のためにはまず国家主権の確保が条件であったというのである。
 もう一つは独裁の排除であるという。独裁政治の下では自由はあり得ないというのは容易に理解できることではある。
 本講演がなされた当時の日本では、国家は自由を圧迫する悪役とする言論人が多かっただろうことからすると、このように自由の守護者としての国家を語るには相当な困難があったろうと想像する。


*「公的な自由」と「個人的な自由」
 著者は、上の二つの条件…他国及び独裁からの解放を公的な自由とし、「言いたいことを言い、したいことをすること」を個人的な自由と分類しつつ、両者については前者があってこそ後者は可能となるとしている。
 これは分かりきったことのようにも思えるが、上と同じく当時の社会状況を意識した発言なのだろう。


*自由社会と人の本性(独裁政治を生む危険性)
 著者は本講演の最後に、自由社会から独裁が生まれる過程について書いている。その理屈はこういうことらしい。
 まず社会全体に自由が行き渡ると、あれもよい、これもよいとされ、「どんな人の生活もそれぞれを平等に同じ価値のものとして認め」ることとなり、これは「どっちにしたところで大した変わりはない、どっちでもいい」という考え方に行き着くことになる。
 このように、こうでなければならないという社会的な規範による圧力が弱まり、それぞれがそれぞれの自由にしてよいということになれば、外圧による善ではなく、自発的な善をなすことが可能となり、「本当の善人」が生まれることになる。
 しかしその一方で、これとは「正反対の非常に悪い人間」も出現することになる。「最悪の人間のほうが、あらゆる制約が捨てられると、むしろたくさん生まれてくる」ともいえる。「人間的に下等な欲望に訴えるという形で権力をねらう最悪な人間が出て、政治的指導者になる」恐れもある、というのである。
 これは一つの理屈にすぎないのではあるが、歴史を振り返れば、民主政治の中から独裁が生まれるというのはあり得ない話ではないのだから、注意は必要だろうとは思う。


*いろいろな考え方
 自由については、政治、宗教、哲学、語源など、さまざまな方面からの考察があるが、本講演の場合は古代ギリシアの考え方を基礎にして語られており、非常に興味深いものがある。ひきつづき自由とは何であるのか、過去にどんなことが語られていたのか、調べてゆきたいと思う。