『はじめての宗教論 右巻 見えない世界の逆襲』佐藤優著

*概略
 本書では宗教およびキリスト教について語られており、宗教についてはいささか難しい話もあるが、キリスト教については分かりやすく説明されている。
 以下には、本書中で特に印象深かった箇所についてメモしておきたい。


*聖書
アーネスト・ゲルナーが言うように、キリスト教という名で明確に定義できる教説は存在しません。全く反対のものが一つの器に盛り込まれているので、どこを取り出すかによってあらゆる言説が組み立て可能です。

(『はじめての宗教論 右巻 見えない世界の逆襲』佐藤優著、NHK出版、2009年、pp.153-154)
 「聖書からはあらゆる思想を導き出すことができる」という話を聞いたことがあるが、ここでも同じことが言われているようだ。
 宗教批判者は宗教の抱えている矛盾をつくが、宗教はその矛盾故に守られ、さらには次々に生まれてくるのだとしたらおかしい。 


*人間観
自由意志によって良い選択、神に至る選択はできない。これがプロテスタンティズムの人間観の根本です。人間の自由意思というのは奴隷意思であり、常に間違った選択しかできないというわけです。
 他方、カトリシズムの人間観では、人間は神の恩寵によって正しい選択もできると考える傾向があります。 

(同上、p.171)
 著者によれば、プロテスタントには幅があって、ルター、カルバン、ツヴィングリは「自由意志による救済の可能性を全く認めないが」、ジョン・ウェスレー(メソジスト教会の創始者)は「人間の自由意志による救済を認め」ており、カトリックに近いという。
 自分は人には当然に自由意思があり、これによって善を選ぶことは可能と考えていたのではあるが、最近はこのどちらにも懐疑的になっているので、上のような人間観には真実味が感じられる。とはいえ人の選択に影響を与えている存在について、それを神とするか、遺伝子とするか、はたまた環境とするかは判断しかねるのではあるが。


*神とは何か?
カール・バルトは、人間が表象する神について、人間の願望が投影された神にすぎないと考えます。

(同上、p.177)
 神や宗教について、あれこれ考えた結果、「宗教によって明らかとなるのは神のことではなく、人の願望はいかなるものかということであり、人が神を語ろうとするとき、それは自己を語ることに他ならないものだ」と近頃は考えるようになっていたのではあるが、どうやらこんなことはとうに言われていたことらしい。
 こうしてみると、この世界にはもう新しいものなど一つもないし、素人が思いつくようなことは専門家によってすでに語り尽くされているというのはその通りのようだ。


*いろいろなキリスト教
宗教は特定の文化の中でしか現れません。宗教というのは文化の一形態です。キリスト教も例外ではなく、純粋なキリスト教というものはありえず、文化と融合して成立する不純なものということになります。
 そうすると、それぞれの文化によってキリスト教は発現形態が異なることになる。ここに類型という考え方が出てきます。 

(同上、p.212)
 著者はこの一例として「西欧文化と融合した西欧類型のキリスト教」や、「スラブ文化と融合したスラブ類型のキリスト教」などがあるとしつつ、「西欧類型のキリスト教」はさらに様々な類型に分かれるとしている。
 自分は遠藤周作の語るイエスに共感するところは多いのではあるが、遠藤周作は日本人に理解できるキリスト教を求めていたとのことであるし、それなら遠藤周作の語るイエスに共感したところで、それは氏によって日本的に再解釈されたイエスに共感することにはなっても、本来のキリスト教の語るイエスに共感したことにはなるまいと考え、若干さみしい心持ちがしたものだが、上の話からすればこれはさほど気にする必要はなさそうだ。
 人は純粋なキリスト教は知り得ず、その文化と融合させた形でしか認知できないのであれば、自らの属する文化を通してキリスト教を理解することの是非を論じても仕方なく、それはそのまま受け入れる他ない。


*イエスの教え
 とはいえ、現実のイエスはどのような教えを説いたのかということは、やっぱり気になる。関連書籍を調べてみれば、現代のキリスト教はイエスというより、パウロによるもののようであるし、悔改めよ天の国は近づいた云々というのは洗礼者ヨハネの言葉ではあってもイエスのそれとはいえないだとか、安息日についての教えはイエス独自のものとは言えず、ユダヤ教ですでに説かれていたともいう。
 果たして現実のイエスの真意はどのようなもので、どのような教えを説いていたのだろうか。どうもこれは現実の釈迦は何を説いたのかという問いと同等か、それ以上に難しそうだ。


*人それぞれ
ある人にとって絶対的なものはある。しかし、それはその人にとってのみ絶対的なものである。人は複数存在するのであるから、絶対的なものも複数あるのは当然のことです。そして人は、自らの信じる絶対的な原理に従って、この世界について語る。そこで語られた異なる言説の間で折り合いをつけるという作業を繰り返していくしかありません。

(同上、p.214)
 人には絶対は知り得ず、自分にとって絶対的なものしか分からないのであれば、それを他に強要はできず、自他の信じる絶対的なものの差異を受け入れ、折り合いをつけてゆくしかないというのは当然のことではある。
 一神教は他に不寛容になりがちだという意見があるけれども、こうしてみると、一神教だからといって必ずしもそのようではなく、人としての相応の謙虚さを持つならば多神教的な側面を持たざるを得ず、必ずしも寛容を拒絶するとは限らないのだ。一神教は不寛容で、多神教は寛容だという単純な決めつけはよろしくない。