前の記事を書きながら思い出したのだが、ガンジーの説いた非暴力について次のような説明を読んだ覚えがある。
 暴力は自らの望みを実現させるために相手に肉体的苦痛を与えるが、非暴力は自らが肉体的苦痛を受けることで相手の良心に働きかけ、真実への目覚めを促すものである云々。
 自分はこれこそキリストの「悪人に手向かってはならない。だれかが右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」(マタイ5.39)という教えの意味だろうと理解したのだった。
 でも、パウロは次のように書いている。
愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。
 
(ロマ12.19-21)
 これはキリストの言葉と関連しているのか判然としないのではあるが、もしかしたらキリストの言葉は、ガンジーのようにではなく、このように解すべきなのだろうか。相手に逆らわないのは、相手の良心への働きかけではなく、神による復讐を期待してのことであると。
 内村鑑三にもこのような言葉がある。これはおそらくはパウロの言葉を前提にしているものなのだろう。 
我らは信仰を以て人に勝ちて満足してはならない。これいまだ人を敵視することである。愛を以て人に勝つに至って――すなわち愛を以って敵人の首に熱き火を積み得るに至って初めて健全に達したのである。 

 「愛を以って敵人の首に熱き火を積」むことを健全とするとは、はたしてどういう論理によっているのだろうか。
 聖書的には、キリストの言葉は、ガンジーのようにではなく、パウロのような理解の仕方が正しく、これができてこそ、内村鑑三の言うがごとく「健全に達した」とされるなら、自分にはやはり聖書は異文化であって理解するのは難しいようだ。
 とはいえ理解できないからこそ理解できたときは嬉しく、ここが聖書の魅力でもあるのだが…。