本書は著者の「あとがき」によるとNHKラジオ番組のガイドブックを「再録」したものとのことであり、序盤は「スッタニパータ」の成立過程と仏教全体における位置付けなどについて説明し、その後は各章ごとに一定のテーマを設定し、それに関連した「スッタニパータ」等の原始仏典のことばを紹介するという体裁となっている。
では本書では具体的には仏教についてどのように語っているかといえば、まず仏教で思考される範囲は次のようなものだとしている。「仏教では今、現にここにある存在、目に見えるもの、現に見られるもの、万人が納得しうることが問われていて、目に見えない世界、経験されない世界を問うことはしなかった」(2003年 p.274)。
したがって、人はどこから来てどこに行くのかという問いは取り扱わないし、「人間存在としての「生」は本来、「因縁和合」(五蘊仮和合)によってなり立っているのであるから、その因縁が壊れれば消滅するのは当然」(p.232)ということとなる。人間以外についても、「因縁によって仮に和合したものはすべて滅びゆく存在である」となる(p.231)。 悪魔については、苦行の放棄をすすめるなど仏典にある「悪魔のささやきは、いずれも当時の修行法と人間の心に内在する内なる悪しき者のささやきであった」(p.205)としており、人から独立して存在するものではないとする。
では仏典に繰り返し書かれてある輪廻転生はどう解釈するかといえば、当時の仏教教団では「在家者は生天を、出家者は涅槃をゴールとすべきことを教えています」(p.95)とのことである。他の書籍で、仏教教団では生まれ変わりについては在家者には説いても、出家者には説かなかったという話を読んだことがあるが、それと同じ考え方であろうか。
このような仏教解釈にはさまざまな意見があるかもしれないが、仏教の基本は諸行無常、一切皆苦、諸法無我にあるとするならば、これらは一応は筋の通った解釈ではあろうと思う。たとえば、「諸行無常、一切皆苦、諸法無我はあくまで原則にすぎず、人に限ってはこの例外であり、人には人を人たらしめている本質が存し、これは永遠不変である」とするよりは、「諸行無常、一切皆苦、諸法無我は真理である。人もこの例外ではない」とする方が理にかなっているだろうことはいうまでもない。
またこの仏教解釈は、釈尊が悟りを得たときに、他者の理解を期待せず、その内容を他に語ろうとしなかったという言い伝えともよく符合する。当時は一般に輪廻が信じられている社会であったという。それなら輪廻を悟り、これは一般に理解されないだろうと考えたというのは理屈に合わない。けれどもたとえば五蘊仮和合を悟り、これは一般には理解されないだろうと考えたのであればそれはごく当然の思考ではあろう。
釈尊は何を悟り、何を説いたかということは度々議論になることではあり、浅学非才の自分には容易には結論は出せず、断定的なことは何も言えないのではあるが、以上のような理由から本書で述べられていることは筋は通っているように思えた次第である。