「第十九講 ヨブの見神(三)」を読了。感想をメモしてみる。
  • ヨブ記三十八章十六~三十八節について。
  • 「自然界の諸現象を起し得ずまた究め得ざる人間の無力を指摘して神の智慧と力とを高調した」。
  • 三十一、二節の北斗、参宿、昴宿など、「ヨブ記の読者は、天文について少くともこれ位は知っておらねばならぬ」。
  • 参宿はオリオン星座、昴宿はプレイアデス、スバル星、六連星ともいう。
  • 「ヨブは右の如く天の星を見た。彼は人力の及ばざるそこに神の無限の力と智慧とを見た」。「星を見るも何ら感ずる所なしという人もある。しかしそはその人の低劣を自白するだけのことである。星を見て神を見るの実感が起らざる人にはヨブの心は解らない。神の所作を見て神を知り得ぬはずがない。我らは彼の作物たる万象に上下左右を囲まれて呼吸している。さればそれに依て益々神を知らんと努むべきである」。
  • 「神の造り給いし万物に囲繞されて我らは今既に神の懐にある。我らは今神に護られ、養われ、育てられつつある」。「神を見んと欲するか、さらば彼の天然を見よ、海を見よ、地を見よ、曙を見よ、天の諸星を見よ、空の鳥、野の獣を見よ、森羅万象一として神を吾人に示さぬものはない」。「万象の中に神を見る、これヨブの見神の実験にして、また我らの最も確実健全なる見神の実験である」。
 本講演では気になるところが二つあった。まず一つは「星を見るも何ら感ずる所なしという人もある。しかしそはその人の低劣を自白するだけのことである」というところである。
 以前、とある宗教を信じていたとき、自分もこれと同じ考え方をしていたのだった。「この宗教は本物だ。これを知ってもなお、感動できず、本物だと気づけない人がいたとしたら、霊性が低いか、仏性が曇らされて真理が分からなくなっているのだろう」と…。自分とは異なる感性、価値観を持つ相手を低く見るというのは、よくある悪癖だろうが、これは特定の思想宗教を強く信じれば信じるほど強まる傾向はあるように思う。
 もう一つ気になったのは「万象の中に神を見る」という考え方である。これは自分にも理解できなくもないが、人は進化の過程で物事に意味を見出す習性を身につけたのであり、無意味さに耐えられない生物であるという話もある。それならば、たとえ万物の中に神を見、感じたととしても、それは事実に基づくものなのか、それとも人の習性に流されて万象に自己流の意味付けをしているにすぎないのかを慎重に吟味すべきであるし、この思惟を経てからでなければ、真に「万象の中に神を見」たとは言えぬだろう。けれども本講演ではそこまでは踏み込んで語られてはいない。ここは残念である。次回の講演でこの点についても語られているかどうかは分からないが、期待して読みすすめたいと思う。