「第二十講 ヨブの見神(四)」を読んだので、例の如くその内容と感想をメモしてみる。
- ヨブ記第三十八章三十九節~四十二章六節の研究。
- 三十八章一節~三十八節は「宇宙の諸現象の中に神の穎智と力を認めたもので」あり、三十九節~四十一章は「生物界において神の穎智と愛を――殊に愛を強く――認めたものである」。
- 「鴉は人に嫌わるる鳥である」が、神はその鴉でさえ「養い給う」。
- 「エホバは諸現象を引きまた動物を引きて、神智神力の無限と、人智人力の有限とを教えた」。「神は絶対の力であるに、ヨブは絶対の無力である」。
- 「毅然として友に降らざりしヨブも、今は神御自身の直示に接して、この謙遜の心態に入るに至った」。
- ヨブは神を知っているつもりだったが、そうではなく「神について聞いていたに過ぎなかった」。その「知識を所有していたに過ぎなかった」。「今は万象を通じて、神を直観直視するの域に至った」。
- ヨブは神学によっても人の言によっても安心はできなかった。「苦悶者の真の行き場所は教会にあらず、教師にあらず、宗教書類にあらず、神の所作物たる自然の万物万象である」。
- ヨブが天然に神を見たのは「彼の受けし艱難、彼の抱きし希望、これが彼の天然観を変えた」ためである。
釈尊の場合はすべてを観察した上で一切は苦であるとし、それらに対する執着を去り、厭い離れることを覚ったというが、内村鑑三によればヨブは天然自然に神を見てその中にある幸福を覚ったということらしい。
これらは正反対の行き方にも思えるが、どちらにも一理あると感じられるのはなぜだろう。これはちょっと不思議。