『神皇正統記』北畠親房著、松村武夫訳、教育社
 『神皇正統記』を読んでいたら、祈りについて書いてあったのでメモしておきたい。
天照大神はただ正直だけを御心としていらっしゃる。

(『神皇正統記』北畠親房著、松村武夫訳、教育社、1990年、p.109)
皇太神・豊愛の太神が倭姫命に神がかりして託宣なさったことは「人というものは元来神に通じた霊妙なものである。したがって心神(正直な心)を失ってはいけない。神は誠意をもって祈る者にまず現れ、神の冥加はまず第一に正直な者の上に加えられる」ということであった。

(同上、p.109)
 これは「心だに誠の道にかなひなばいのらずとても神やまもらむ(菅原道真)」に通じるものがありそうだ。
 私事ながら随分前に、とある宗教の信者だったころに信仰のことで悩んだことがあった。「自分はこの宗教はどこかおかしいと感じるようになってきており、信じきることができていない。信じきろうと努力しても、どこかおかしいという思いを消し去ることはできない。教祖は信仰の綱を手放せば地獄に堕ちるとしている。自分は地獄に堕ちるのだろうか…」と。
 最後はこういう結論となった。「信じきれないないなら、信じきれないとするしかない。もし神様がすべてを見通せる正しい存在なら、信じきれていないのに信じきっているふりをするより、信じきれないものは信じきれないと正直になる方をよしとしてくれるだろう。もし信仰の綱を手放したら地獄に堕ちるとしても、信じていると嘘をついて天国に行くより、信じられないと正直にいって地獄に堕とされる方がましでもある。少なくとも自分の心に正直でいる限りは、どこにいたって気がとがめることもないだろう」。
 いくら正直であることが大切だといっても、世の中は決して嘘はつかず、正直でありさえすればよいというほどは単純ではあるまいが、信仰という自らの心の内に関することについては自らに嘘をついて誤魔化すよりも、正直でいる方がいいと思うので、自分としてはこの結論に満足している次第である。