*つまみ読み
『聖なるもの』を読みたいと思ったのだが、自分には難しすぎたので通読はあきらめてつまみ読みをしていたら、ヨブ記について書いてあったのでメモしておきたい。
*ヨブの友人ら
まず著者は、ヨブの友人らに対する態度を正当とし、友人らの意見を批判している。これは内村鑑三も同じ見方をしていたのだった(「ヨブ記講演」)。
ヨブはエロヒムに反抗して友人らと議論した。友人たちに対するかれの態度はあきらかに正当である。かれらはヨブに対して黙せざるをえない。神を「正当化」しようとするかれらの試みは失敗に帰する。そこでエロヒム自身がおのれの義を弁明しようとして姿を現す。(『聖なるもの』オットー著、久松英二訳、岩波書店、2010年、p.169)
これについて自分はどう考えるかといえば、恥ずかしながらヨブ記をはじめて読んだときは、友人らの意見は正論であり、ヨブは間違っていると思ったのだった。でもその後は著者のような読み方に理があると合点が行くようになった次第である。
*神義論
著者は、ヨブ記の38章を神義論として勝れたものとしている。
この神義論はヨブの友人たちのそれより勝れたものであり、ヨブ自身に非を認めさせうるほどのもの、認めさせうるばかりか、同時に、懐疑に悩まされていたかれの魂を、そのもっとも深い部分から落ち着かせることができるほどのものである。(同上、p.170)
正直な感想をいえば、自分はこの部分についてはよくわからない。ただ悩み苦しみ、心は荒れ乱れているときであっても、神と向き合えたならその瞬間に平安を得るだろうとは思う。
いささか話は飛ぶが、臨死体験談では光りに包まれた存在との出会いによって心癒される話があるけれども、おそらく神との出会いはそのようなものだろう。
*目的論、因果律
著者は、「~のために」という考え方をあまり歓迎してはいないらしい。
エロヒムの行為の目的は、信仰者を試し浄めるためだとか、各人が苦悩を抱えつつ適応していかねばならないことがら一切のためだとかいったことである。合理的な概念から出発すれば、人はこの対話がそんな台詞で締めくくられることを望んでやまない。(同上、p.171)
自分はいまだに「~のために…」「~だから…」という思考から離れきれてはいないので、上のような対話を望んでしまうクチである。38章に心から感動できないのは多分このためだろう。
*超越者
これは難しい文章だが、著者の宗教観と38章の読み方がおぼろげながらも分かってくるような気がしないでもない…。
結局のところ、この章は合理的概念で論じ尽くせることがらとは完全に異なるものに依拠している。それはすなわり、あらゆる概念を越え、だから目的概念も越えたところにある不可思議さそのもの、純粋に非合理なかたちをとっている神秘、しかもミルムでありかつ逆説的なものとしての神秘である。(同上、p.171)
はなから理を放棄するのは論外ではあるが、理があるならば理によらないものも無くもなかろうし、その可能性をも否定するのは理に反するということにもなろうとは思う。