*予定
『聖なるもの』に、予定に関する記述があったのでメモしておきたい。
恵みの体験者は、自分の来し方を振り返ることで、いまの自分があるのは、自分自身の所業や努力のおかげではないこと、自身の意思や能力によらず、ただ自分が恵みに与り、それに捕えられ、動かされ、導かれたからだということをますます強く認め、実感する。(『聖なるもの』オットー著、久松英二訳、岩波書店、2010年、p.187)
かれは自分のすべての行為にさきんじて、救いの愛の探求と選びが働いているのを見、永遠なる恵みの神意、すなわち予定を認め受け入れる。この予定はあくまで救いへの予定である。(同上、p.187)
この感覚については自分にも多少の経験はあるし、前に記事にも書いたことがあるのでよく納得できる。
*予定の発見
この考え方は意外に思えたが、言われてみれば確かにその通りだ。
「選び」の思想、すなわち神によってすでに救いへと選びだされ、予定されているという考えは、直接にはあくまでも宗教的な恵みの体験そのものを表現するものとして生まれた。(同上、p.187)
予定という考え方は、神が全能ならすべては神の意志によるのであり、予定されているだろうという理屈から生じたのだろうと思っていたが、恵みはすでに予定されていたという実感から生じたという方が説得力がある。
*合理の領域外のこと
この考え方は、自分にはどうも難しい。
恵みを受けた者が、自分が選ばれたということを知ったとして、そのことと同時に、神はある者を祝福に、ある者を呪いに定めるなどという結論に達するということはありえない。なぜなら、「選び」とは合理の領域に属さないからだ。(同上、p.187)
救われる者はすでに予定されているという話になると、ついこんな風に考えてしまいがちではある。「救われる人は予定されているなら、救われない人も予定されているということなんだろう」「人それぞれさまざまな過程を経るとしても、最終的にはすべての人は救われ、そうでない人はいないことが予定されているのではないか?」
実際のところは、これらは人にはわかりようのないことなのだろう。ただそれはそうとして、この考え方は、神はすべてを予定しているが人は自由であるという考え方に似ているようではある。
「神の側から見ればすべては予定されているが、人にとっては未来は未知であり自由である」
「救われる者が予定されているとしても、それが直ちに救われない者をも予定されていると結論づけることにはならない」
こうして並べてみると、やっぱり似ている気がする。でも結局のところこれは人にはいくら考えてもわからないことなのだろう。