まず念仏には、次の誤解がつきものだったという。
「どんなに悪いことをしても、死ぬ前に念仏を唱えれば阿弥陀さまが救ってくれるんですよね。じゃあ、どんどん悪いことをしちゃいます。よし、おまえら! 偉いお坊さんのお墨付きが出たぜ、ヒャッハー!」(『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』飲茶著、河出書房新社〈河出文庫〉、2018年、p.382)
しかし実際のところ、「そういった誤解をする者は、すべて「(親鸞が言うところの念仏の効能が働きにくい)善人」なのだという。その理由は次による。
なぜなら、彼らは「他人に迷惑をかけようと、最後に自分だけが救われればよく、それが賢い『うまい生き方』なのだ」という価値観を持っており、その価値観のとおり「自分が正しいと思うこと」をやって満足しているのだから、実際には悪事を働いていようとも彼らは「善人」であり、「他力」の境地にいたることはないのである。(同上、pp.382-383)
なるほど、悪人正機説でいう悪人は、罪の自覚が強くあり、正しくありたいと願いつつも、それができず、残された道は他力にすがるしかないという心境にある者とすれば、上の念仏を誤解する者は罪の自覚なく、他力にすがることもなく、自分で自分の生き方を決定できると思い込んでいるのだからそれとは正反対である。
「死ぬ間際に念仏を唱えれば救われるんだったら、それまでは好き勝手にヤリたり放題して生きようぜ」というのは間違いだと感じはしても、どこがどう間違っているかはうまく説明できなかったのだが、この解説を読んでよく合点がいった。いい気分。
とはいえ、この定義でゆけば、自分はまだまだ「善人」の傾向が強く、「悪人」になりきれていないのがつらいところだ。とほほ。
とはいえ、この定義でゆけば、自分はまだまだ「善人」の傾向が強く、「悪人」になりきれていないのがつらいところだ。とほほ。