*ドーキンス
ツイッターにて、ドーキンスの『神は妄想である』について語られていたので、気になったツイートだけでも保存しておきたい。
中村圭志 神話・宗教学@seattlelubbock欧米では無神論が台頭していますが、この手の無神論Tシャツあるいはノー宗教Tシャツというのが無数にあるようです。イマジン~はもちろんレノンの「イマジン」の歌詞によりますが、自爆テロで崩壊したWTCの図柄はドーキンスが出演した英国のT… https://t.co/Z16Tsdtefu
2021/05/31 09:04:22
中村圭志 神話・宗教学@seattlelubbockドーキンズやデネットの無神論は宗教を口にするいかなる人にとっても重要ではないかと私は思っているのですが、信者さん一般はドーキンスの本など読む義理を感じないでしょうし、人文系の研究者も「これは自然科学からの一方的な議論ではないか」と… https://t.co/FKGalz9WhI
2021/06/03 16:55:45
中村圭志 神話・宗教学@seattlelubbockドーキンス『神は妄想であるThe God Delusion』をどう読んだらいいか? ちょっとずつ読んでみましょう。目につく言葉を拾ってみます。第1章。ドーキンスが「神」をどういう意味で使うべきと思うかを書いた所があります。それは「… https://t.co/bmrhFDrIqR
2021/06/03 16:56:31
中村圭志 神話・宗教学@seattlelubbockつまり、無神論者は「説明が未だつかない領域というものがある」と認める。しかし「説明がつかないのなら説明がつくまで待とう」と考える。逆に、説明のつかない現象に対して「神霊がやった」あるいは「超自然現象というものがある」と「説明」するが、宗教(神信仰、奇跡信仰)です。
2021/06/04 13:48:19
中村圭志 神話・宗教学@seattlelubbock無神論的一元論は《体系的説明+空白領域》で考える。宗教的二元論は《体系的説明+神霊的説明》で考える。神霊的説明は実は説明ではなく説明のつかないものをパッケージにしたものです。そしてこの非説明的説明を認めないのは傲慢だと言う。しかしこの態度そのものが無神論者には性急=傲慢に見えます
2021/06/04 13:48:58
中村圭志 神話・宗教学@seattlelubbock「信仰の信仰」とは、自分では神様を信じていないのだけれど、信仰はとても大事だとの立場をとることです。「神の信仰」が神を信じることであるのに対し、「信仰の信仰」は信仰には美徳があると信じること。自分はその美徳に与っておりませぬと遠慮するわけですから、心理的にはやや屈折した立場です。
2021/06/08 18:48:25
中村圭志 神話・宗教学@seattlelubbock無神論者ヒチンズによれば、⑥マザー・テレサも「神が信じられない」と神父に告白しており、このタイプに近いのだとか。神父は「そのような苦しみこそ主の十字架の苦しみです。悦びなさい」といったようなことを言う。こうなると「信仰」と「信仰の信仰」と「不信仰」の境界線がかなり怪しくなります。
2021/06/08 18:50:10
中村圭志 神話・宗教学@seattlelubbock先走って言いますと信仰問題は結局「政治的」な問題だというのが私の認識です。信仰という概念で事実認識と信頼とを曖昧に結ぶ政治的レトリックから利益を得ているのが宗教者であると。もっとも宗教者はその政治性を認めないでしょう。政治性を認めないこと自体が政治的なのでは?と水掛け論になります
2021/06/09 11:46:03
中村圭志 神話・宗教学@seattlelubbock言い換えれば、ドーキンズは神の有無の問題は《経験的》な(科学的検証の対象となる)問題だと言っているわけです。ドーキンズがそう考えるのは、神学者も一般信徒も「神」を数学的な観念の類ではなく、啓示、奇跡、祈りへの応答を通じて《経験》的な領域に具体的に介入する存在と考えているからです。
2021/06/09 19:54:13
中村圭志 神話・宗教学@seattlelubbock《経験》に顔を出すものは、すべて科学の研究対象となります。心理的介入ならば心理学や生理学が、オカルト的介入ならばオカルトそのものの当否を決める科学が、歴史的介入ならば歴史学が関わることになる。それらのどれでもない形而上学的存在といったものが想像可能かが問題となるでしょう。
2021/06/09 19:54:55
中村圭志 神話・宗教学@seattlelubbockというわけで、神学者や一般信徒がふつうに語っているところの《啓示と奇跡と祈りの神》それ自体はすべて科学的批判の対象となり、「あり得るか」「あり得ないか」の確率を計るべき対象となることになります。そんな神の有無をガチの不可知論の対象であるかのように述べるのは間違いだ、というわけです
2021/06/09 19:55:30
中村圭志 神話・宗教学@seattlelubbock一般則として、何かがあると主張したほうがその証拠を示す義務を負います。それを怠るのであれば、まわりの人間はあっさり無視してかまいません。「ここは霊のスポットだ」「証拠は?」「証拠はない」「どうやって調べる?」「調べようがない」「ではさようなら」でOKです。
2021/06/13 19:47:17
中村圭志 神話・宗教学@seattlelubbockでは、神の(哲学的抽象観念としての神ではなく、啓示などにより歴史に介入するとされる神の)存在の有無については、惑星間ティーポットの場合と比べてどうなるでしょうか? 結局、個人ないし集団の言説という以上の存在性の証拠が挙がっていない以上、神もティーポットも同類ということになります。
2021/06/13 19:48:04
中村圭志 神話・宗教学@seattlelubbockそこでドーキンズは、有神論者に対して「君は他宗教については無神論者なんじゃないか」とツッこむという戦略を提案します。聖書の神を信じる人も、ゼウスについては(惑星間ティーポットと同様)「存在しっこない」で片づけてしまいます。だから有神論者も他宗教に関しては無神論であると。
2021/06/13 19:48:28
*反省
ツイートはこれ以降も続いているが、質、量ともに素晴らしいので油断するとすべて保存したくなってしまい、きりがない。そんなわけで、とりあえずはメモはここまでとしたい。
それにしてもこれを読むと、自分は『神は妄想である』は通読済みのつもりだったが、全然読めてなかったことを思い知らされる。日暮れて道遠しを思う年になってきてはいるが、焦らず地道に精進するとしよう。
*注意
上は、連投ツイートの一部を保存したものである。そのため前後のつながりが不自然なところもある。このテーマに興味のある方は元ツイートを確認してもらえればと思う。以上。