*読み応えがある本
本書はタイトル通り、キリスト教の基礎知識を紹介するものであるが、「宗教について懐疑的な人の合理精神を極力尊重して」著されているところ、四つの福音書を横断的に説明し、それぞれの特徴と差異を明らかにしているところ、福音書の各場面についてキリスト教内における解釈とともに著者の考えも提示されているところは読み応えがあり、大変勉強になった。
以下に、本書のなかで特に印象的だった箇所と感想を書いておきたい。
*悪魔の誘惑
まず著者は、イエスが受けた悪魔の誘惑(マルコ1、マタイ4、ルカ4)について次のように書いている。
イエスの個人的体験をヴィヴィッドに見ていた人がいるはずもありませんから、これはあくまでも伝承的に創作された哲学的神話です。(『信じない人のためのイエスと福音書ガイド』中村圭志著、みすず書房、2010年、p.156)
これは極めて現実的な読み方ではあろうが、「それを言っちゃあ、おしまいよ」という感じになっているのはおかしい。
*奇跡
著者は、奇跡物語についても容赦ない。
治療師があちこちでヒーリングをやっているとすると、治らなかった事例は忘れられ、治った事例は印象深く語り継がれるものでしょう。奇跡譚ばかりがたまってしまうのは自然の成り行きです。(同上、p.165)
奇跡は無かったと決めつけることからすれば、その元になる出来事は実際あったろうとしているところは柔軟ではあろうが、これだと奇跡の有難味が大分薄れてしまう感じがするのはさみしい。
*神義論
本書では、ユダの裏切り(マルコ14、マタイ26、ルカ22、ヨハネ13)に関連して、自由、責任、神義論にも触れている。
ユダの裏切りもまた、自らの意思、神の計画の両面から規定されています。ユダが神の傀儡だとすると、自分の行為の責任はないはずです。しかし、そういう解釈は許されないことになっています。(同上、pp.204-205)
そもそも人間の対局として設定された絶対神なるものが、謎めいた存在です。絶対神が万事お見通しであるのならば、人間は自分の悪に責任をとる必要はありません。しかし、原理上、そういう解釈は許されません。ユダの場合もこれと同様です。(同上、pp.205-206)
「そういう解釈は許されないことになっています」ということからすると、やはりここは微妙な問題であり、深く突っ込んではいけないところなのだろうか。
宗教にタブーはつきものだし、これも仕方のないことなのだろうが、「そんなことは考えてはいけません」と言われると、余計に興味がわいてくるから困る。
*犠牲
十字架の意味については次のように説明されている。
イエス・キリストの死という犠牲の供物によって、債務を帳消しにしたのです(ユダヤ人はもともと犠牲獣を神殿に捧げることで罪を祓っていたので、これはその延長上にある発想です)。(同上、pp.208-209)
自分はこの発想については、当時のユダヤでは律法を守れなかったときは犠牲(汚れていない清らかなもの)を捧げることで罪を赦されたことから発展して、人類の罪が赦されるには、汚れのない清らかな神ご自身が犠牲になる以外になかったという論理に至ったと理解しているけれども、正直言ってこれにはどうしても違和感を覚えてしまう。
「神様は血を厭い、殺生はよろこばない」という感覚が心に染み付いているせいか、神殿で殺生をしたり、血を流したりしたら、赦されるどころか神罰がありそうに思えてならないのだ。たぶんこれは自分が神道的な文化のなかで育ったためなのだろうが、キリスト教には共感するところも多々ありつつも、こういうところには異文化を強く感じないではいられない。
余談ながら、神の体を食べ、血を飲むことで清められるという発想も自分にはよくわからない。肉食を避け水によって清められるというならわかるけれども、神の体を食べ血を飲むというのはすごく怖いし、清さ美しさを感じるのは難しいのだ。ここもキリスト教のうちでどうしても合点が行かない部分ではある。
*反省とゆるし
著者によると、反省とゆるしについては、マルコ福音書とルカ福音書ではちがいがあるという(マルコ2、マタイ9、ルカ5)。
マルコのイエスは無条件的に(つまり相手に反省を求めずに)人々を赦して歩いているように見えますが、ルカになると倫理的反省を条件にしています。(同上、p.167)
聖書を確認してみるとこうある。
イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マルコ2:17)
イエスはお答えになった。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」(ルカ5:31-32)
マタイ福音書はマルコ福音書寄りのか書き方であること、マルコ福音書がもっとも早く成立していたろうことなどからすると、悔い改め云々はルカが後から付け足したものにも思えるが、後から付け足されたからといってイエスはそんなことは言っていなかったと断言はできぬことではある。はたして現実のイエスはどちらの考え方をしていたのだろうか。
世の中には、はっきりしたこたえを見いだせない問題が山ほどあるものだけども、これもそのうちの一つのようだ。
*まとめ
本書は、著者が「はじめに」で触れているように、「信じる信じないをとりあえず棚上げして、懐疑的な視点を保ったまま宗教の言語に(ここでは福音書の言語に)接触できる場を提供すること」を目的としている著述なので一部の熱心な信者には歓迎されないかもしれないが、信者ではない一般人が客観的現実的な視点からキリスト教を知るという点では有用であろうし、タイトルにある通り信じない人(非信者)には是非ともお勧めしたい一冊である。