*つづき
 前記事のつづきです。


*神
 このやりとりをみると、「神」についての考え方はさまざまあるのだなと実感する。「イエスは神である」といわれても、さほど抵抗を感じず拝むことができる自分は、どうやらいかにも日本人らしい日本人であるようだ。



*圧巻
 ここでは聖書翻訳、人の子の意味などについて語られているが、もしイエスが、ここで語られているような意味で「人の子」といっていたのであれば、かたじけなさに涙こぼれる心持ちがする。
 またこの頁を読むと、聖書は一言、一文にも深い意味が込められていて決して疎かにはできないというのは本当だと思える。聖書には学ぶべきことがたくさん詰まっている。



*進化論と創世記
 この話題は、生物学者としての将来を嘱望されていた若者が、進化論と創世記との矛盾に悩み、生物学の世界から去っていった例もあるというドーキンスが書いていた話を思い出させるものがある。
 創世記の記述は数千年前の人々の考えであり、現代科学と異なっているのは当然なのだから、数千年前の人々の考えを絶対化したり、現代科学と合致するようにこじつける必要もないというのはその通りである。



*予言のトリック、意味づけ
 恥ずかしながら、自分は何にでも意味づけしたくなる性質である。何かの拍子に「あの出来事には、こういう意味があったのだ!」と直感して、いま自分は真実に気づいたと興奮してしまうのだ。人の脳は、何でも目的論的に受け取ってしまうようにできているというが、自分はまさにそれだ。
 予言、聖書の暗号といったオカルトの類は、こういう人の脳の弱点を突いてくるので注意が必要である。



*信仰とは?
 「信仰とは知らないことをまるで知っているかのように確信すること」とは、なかなかに辛辣な言葉だ。とはいえ、ある宗教の教祖を崇拝する者が「私は正法を信じているのではありません。これは事実なんです」と断言するのを聞いたことがあるので、この言葉は辛辣ではあっても一理あるとは思う。信者は信仰熱心なほど、こういう思考に陥りがちではある。



*棄教という救い
 「信仰を捨てたとき、わたしは救いを見いだしたのです」という言葉は胸にしみる。
 これは多分、信仰であっても執着すれば苦となるということなのだろう。「私はこの宗教を信じる」という心境はまずまず平和だけども、「私はこの宗教を信じたい、信じなければならない」という状態になれば、これは執着であり苦であるから、心の解放を望むなら、たとえ信仰であってもそれに執着するのは止めた方がいいということになるのだろう。



*ユダヤ人から見たキリスト教
 ここではキリスト教徒の中からユダヤ人が消えていった理由について推理されている。
 この問題については、イエスの死後、イエスを信じる者たちは大きく分ければ二派あり、エルサレムを出て異邦人に伝道するパウロたちと、エルサレムに残っていたユダヤ人たちがいたが、後者はローマとの戦乱に巻き込まれて滅び、前者は生き残ったためだという話は読んだことがあったが、ここで書かれているように偶像崇拝の考え方が大きく影響したというのも説得力がある。