イエスという男 逆説的反抗者の生と死

*通読
 何年か前に本書を開いたときは難しすぎて読み通すことはできなかったのだが、先日また開いてみたら今度は最後まで興味を持って読むことができた。これはうれしい。本書の中で、特に印象に残った箇所について以下にメモしておきたい。


*熱心党
 まず著者は、イエス在生の当時、その弟子に熱心党に属する者がいたという話はきっぱり否定している。
熱心党そのものはイエスの生きていた当時はまだ存在していなかった。あるいは、存在していたとしても、人々の間で問題になりうるほどの活動はしていなかった。
[省略]
マルコが福音書を書いていた五十年代(もしくは六十年代)になって、ようやく熱心党の活動が顕著になってくる。

(『イエスという男 逆説的反抗者の生と死』田川建三著、三一書房、1981年、p.93)
 「イエスの死からユダヤ戦争の勃発まで、約三十五年間であ」り、これはさして長い期間には思えぬかも知れぬが、日本の歴史にたとえれば「日本の一九三五年に、七十年の新左翼の存在を予測」できたかということにもなるし、この点を考えれば、この三十五年間という期間がどれほどの時間かは想像できようとのことである。そうして「熱心党の活動が顕著になってくる」のは、「マルコが福音書を書いていた五十年代(もしくは六十年代)」だという。
 自分は、ユダは熱心党であり、イエスがユダヤ人の独立解放の救世主となることを期待していたものの…云々という話を信じていたのだが、どうやらこれは全くの見当違いだったようだ。


*書きかえ
 本書では、聖書の書きかえについていくつかの指摘があるが、そのうちの一つをここにメモしておきたい。
マルコは二度「怒る」という語を用いてイエスの行為を描写している(三・五、一・四一。このうち後者は写本によっては「憐む」という動詞に書きかえられている)。ところがイエスを怒らない柔和な人にしたかった後の教会は、この二箇所とも削ってしまった(マタイ八・三、一二・一二、ルカ五・一三、六・一〇)。

(同上、p.293)
 新共同訳で確認してみると、たしかにマルコにある「怒って」(3:5)が、他ではなくなっている。また後者は「深く憐れんで」(1:41)としてあった。これらは写し間違いではなくて、著者の言う通り意図的な書きかえだったのだろうな。


*楽天性
 個人的にはイエスには悲劇的でさみしそうなイメージがあるのだが、著者はそれとは反対にイエスの楽天的なところを繰り返し指摘している。
ここにもイエスの、神と神のつくった自然とに対する、実に楽天的な信頼感があふれている。

(同上、p.307)
 著者がその根拠としている箇所を確認してみると、たしかにこれは楽天的といえそうだ。
空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。だが、あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。

(マタイ6:26)
だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。
[省略]
あなたがたの天の父は、求める者に良いものをくださるにちがいない。

(マタイ7:8-11)
「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」

(マルコ4:26-29)
 改めて読むと、神に対する信頼感はすごい。これを読むこちらの方まで心が落ち着き暖かくなってくる心持ちがする。なんというか、つい武者小路実篤を連想してしまう。
 こうしてみると、キリスト教からニューソートが出てきたのは、必ずしも反発反動というわけではなく、当然の流れだったのかもしれぬという気がしてこないでもない。


*罪
 著者によれば、イエスの楽天性は、自然に対してだけではなく、罪に対しても変わらなかったらしい。
ともかくこういうイエスだから、人間の数多くの行為を洗い上げて、どれが罪になるかを定めて断罪し、あるいはそもそも、人間存在そのものが罪なる存在であるとみなす、などといった発想からはほど遠かっただろう。この人の楽天ぶりは、そういった陰湿な思想とは無縁である。

(『イエスという男 逆説的反抗者の生と死』田川建三著、三一書房、1981年、p.271)
 これについてもその根拠を確認してみると、たしかにそのようである。
はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。

(マルコ3:28)
「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。

(マルコ2:5)
 ちなみに著者は、これらの言葉についてこう書いている。
右の中風患者の話にせよ、この明快な宣言にせよ、別に、罪が赦されるために悔い改めねばならぬとか、悔い改めにふさわしい実を結べ、とか、洗礼を受けろとか、そういったことは一切言われていない。ここに洗礼者ヨハネとイエスの決定的な相違がある。 

(『イエスという男 逆説的反抗者の生と死』田川建三著、三一書房、1981年、p.275)
 また、マルコ3:28の後の文章についてはこう書いている。
(原始教団はこのせりふの明快さにたじろいで、「しかし聖霊の冒涜は赦されない」とつけ加えてしまった)。

(同上、p.275)
 そう言われてみれば、「人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に許されず、永遠に罪の責めを負う」(マルコ3:28-29)というのは、但し書きの部分は、前文の断言を弱めるために後から書き加えられたという感じがしてこないでもない。


*洗礼者ヨハネとキリスト教
 上はイエスについての記述だが、著者は洗礼者ヨハネについてこう書いている。
その宗教的厳格さを極限までおし進めたのは洗礼者ヨハネであった。
[省略]
このヨハネが人々に対して呼びかけた言葉が、「悔い改めよ。神の国は近づいたのだ」(マタイ三・二)であった。

(同上、p.264)
「悔い改め」とそれに伴う「罪の赦し」という、通常いかにもキリスト教的と思われている宗教行為と宗教理念にしたところで、洗礼者ヨハネの宗教行為の中心にすえられていたものであって、イエス自身はそのどちらの言葉もほぼまったく口にしていない。 

(同上、p.267)
 著者はこれに続けて、「最古の福音書マルコにおいて、「悔い改め」という語は、後述する一・一五を別とすると、洗礼者ヨハネ(一・四)とイエスの弟子達(六・一二)の活動を表現する場合にしか用いられていない、というのは象徴的である」とし、さらに続けて、「ルカは、「復活した」イエスが弟子達に、洗礼者ヨハネとまさに同じことを宣教するように、と命じる場面を作文している」と指摘しつつ、「洗礼者ヨハネの説教の型が、キリスト教化されて原始教団によって継承されたのである」としている。
 どうもこの辺りのことは、この間、『信じない人のためのイエスと福音書ガイド』(中村圭志著)で読んだことと同じことを説明しているようだ。これは専門家の間で定説になっているのかどうかは知らないが、いかにもありそうなことだという感じはする。自分には学がないので、著者の言葉の真偽を確かめ、自分の意見をはっきり固めることはできず、「…と思う」「…と感じる」と呟くことしかできぬのがつらい。


*必読本?
 「あとがき」では、これらの著作について触れられていた。
  • ブルトマン『イエス』
  • 八木誠一『イエス』
  • 土井正興『イエス・キリスト』
  • 荒井献『イエスとその時代』『イエス・キリスト』
 次はこの辺りの本を読んでみたいと思う。
 著者の率直な書評は、キリスト教に疎い自分にも、それぞれの書物がキリスト教においてどのような位置にあるかが察せられてありがたい。