先日、ひさしぶりに『新約聖書入門』を読み返してみた。気がついたことをメモしておきたい。
*修身
まず一つは、著者は聖書によって自らを省み、教訓を学び、人格を磨こうとしているということである。自分が著者の本がすきなのはこれが理由らしい。
*素直
二つ目は、著者は聖書をそのまま信じているようだということである。福音書ではパリサイ人はイエスを陥れようとしている悪役になっているが、著者はこれをそのままに受け取っている。現実のパリサイ人らは本当にそのような人々だったかという考察は見当たらない。
著者の立場であればこれが当然かもしれないが、著者のような人であっても聖典に○○人は悪いたくらみをしていたとあれば、それをそのまま信じるのだとすれば、信仰とは一体何なのだろうと考えてしまう。
*引用の仕方
三つ目は、引用部分についてである。
(『新約聖書入門』三浦綾子著、光文社、1995年、pp.254-255)
どうやら著者はここで、ロマ書の12章19-20節のもっとも驚かされる表現のあるところを省略したらしい。
ちなみに、この部分は共同訳ではこうなっている。
愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」(新共同訳 ロマ12章19-20節)
ついでに、定方晟氏による三浦綾子批判を見てみると、こうなっている。
ここでは当然ながら、「燃える炭火」について省略はせず、解説までしている。
「燃える炭火」について、三浦綾子は、カッパ・ブックスでは省略せず文庫化にあたって省略したのか、もとから省略していたのかは分からない。しかしどちらにしてもこの省略は意図的なものであろうし、伝道のための苦心の現れなのだろうけれども、三浦綾子がこのような引用の仕方をしているというのは意外であった。