*まえおき
 『信仰の遺産』に収録されている「キリストを信じうるか」を読んでみた。その大まかな内容と感想を書いておきたい。


*前提
 まず著者は、神が人として現れたことを信じる前提として次のように書いている。
吾人の態度は、冷淡なる科学者のそれとは異なる徹頭徹尾宗教的要求に基づく求道者のそれたることを要する。吾人は神語り給うや否やと心を澄ませ耳を傾けて聴かんことを欲せねばならぬ。

(『信仰の遺産』岩下壮一著、岩波書店〈岩波文庫〉、2015年、p.37)
 信仰は科学ではなく、精神的なものであるから、相応の精神的態度が必要となるというのは自分にもわかるように思う。


*認識
 著者は上の観点から自由主義神学などを強く批判している。
高等批評がその誇りとせる歴史的考証や博言学的穿索を以てキリストの神秘を探らんとせるは、水面に映る月影を掬して天上の明月を掌中に納め得べしと夢想せるに異ならぬ。

(同上、p.41)
真に宗教的なるもの、神的なるものへの了解を欠く人々が、福音書の宗教的意義を認識し得よう筈はない。

(同上、p.38)
 宗教的意義および神秘を知るには、科学的方法ではなく、霊的態度、宗教的精神をもって向き合う必要があるという論理はわかるように思う。


*信仰
 さらに著者は、信仰は神のみによるのではなく、人の意思も関係しているとしている。
聖書の語を以て云えば「信仰は神の賜物」である。人が信ずるのではあるけれども、同時に信じさして頂くのである。

(同上、p.40)
神その恩寵によってこれを受け容るる人に御自らを啓示し給うのである。之に対する人間の態度は、信仰と依存のそれの他にはあり得ない。恩寵による神の啓示と之に対する吾人信仰と、この二者の契合する処に於いてのみ、キリスト信仰は成立しうる。

(同上、p.41)
 神は絶対であるとすると、すべては神の意思によるのであり信仰も例外ではないとするのが一等筋が通っているように思える。これと比べると神は絶対であるが人は自由である、信仰は神のみによるのでなく、神の恩寵と人の意思において成立するというのは若干理屈の通りがよくない。
 ただ絶対と自由の両立、心の平安、自助努力の推奨など様々なことを考えると後者の考え方を闇雲に否定するわけにもいかなくなる。思想のみで判断するか、思想のみでなくその影響等も考慮して判断するかで結論はだいぶ違ってくるものだけども、これもその例か…。


*印象
 著者の文章は知的であり、かつ気迫がみなぎっていて、それを読むだけで思わず背筋を伸ばさないではいられない心持ちにさせられる。内村鑑三の文章もこのような圧力があるけれども、著者の文章もそれに似ている。
 その内容については、宗教的真理は宗教的態度によってでなければわからない、神は信仰によってでなくてはわからないというもののようなので、肩透かしをされたようで少しく残念ではある。これだと神は現実存在ではなく、精神的な存在であるから、一定の精神的態度をもたなければわからないということであり、神の非存在を否定しきれていないようなので…。
 自分としてはこれよりは、もし神が真に実在するのであれば、精神的態度のいかんによらず、科学的探求を徹底することによってその真に実在することを確認し得る時が来ないとも限らないという方が了解しやすく思う。神は人の心の中にのみ存在するのだとすれば、神を知るには特定の精神状態にならねばならぬだろうが、神は人の心から独立して存在するなら、精神状態に依存せずともその存在は知り得るだろうから。