Scan0011『旧約聖書入門』三浦綾子著

*まえおき
 先日は『新約聖書入門』を読んだので、今回は『旧約聖書入門』を読んでみた。心に残った箇所を以下に書きとめておきたい。


*人生を一行で表現すると…
 著者は、聖書においてエノクの一生が一行で表現されていることから、次のような問いを発している。
わたしたちが死んだ時、一行でわたしたちの生涯を誰かが記すとしたら、果たして何と記してくれるだろう。

(『旧約聖書入門』三浦綾子著、光文社、1994年、p.66)
 これは前に本書を読んで以来、ずっと心に残り、考え続けている問いだけども、それは今後も変わらなそうである。


*自然観
 著者は「地を従わせよ、すべての生き物を治めよ」という聖書の言葉を根拠にして、人は自然の管理者であるとしている。
すなわち神の意思に従って自然管理をなすことが、本来の人間の使命であったはずなのである。

(同上、p.19)
 自分には自然の中に人がいるという感覚は理解できるが、自然の上に人がいるというのはどうも理解し難い。それは自然に対して傲慢すぎるのではないかと怖気づいてしまう。
 やはり自分は一神教よりは、汎神論、アニミズム的な考え方に親和性があるようだ。こんなことは普段はまったく気にすることはないけれども、キリスト教を調べるたびに自分の宗教的文化的背景に自覚的になって行くのは面白い。自己を知るには、自己とは異質なものに接触すればいいというけれども、これは本当だ。


*額面通り
 著者は神の言葉はそのまま受け取るべきであって、自分勝手に割り引いたり、水増ししたりしてはいけないとしているためか、聖書解釈もそのようになっている。
 たとえば、バベルの塔の話を紹介した後では次のように書いている。
こうして世界の言葉は、たくさんの言葉に分かれたのである。もし、このような事件がなければ、世界は今も、全部同じ言葉を使っていたであろう。

(同上、p.83)
 創造論について疑問を持つ人から、それは本当かと質されたとき、こう答えたともいう。
「そうよ。男と女を、神が創ったと、ちゃんと聖書には書いてあるのよ」

(同上、p.22)
 自分は聖書を古典、宗教書として読んではいても、神話的な部分をもそのまま事実として受け取ることはしていない。
 もし宗教とは、聖典の記述をそのまま信じるものだとすれば、自分には宗教は無理かもしれぬ。倫理的道徳的な戒めについては、できるだけ割り引かず、そのまま受け取るようにすべき場合もあるのは理解できるが、自然、歴史などの事実関係については科学、学問の発達を考慮してその限りでないとするなら理解できるが、それすらも聖典の記述のすべてをそのまま受け取らなければならぬというなら、それは理解できない。


*まとめ
 三浦綾子の本は、以前は好んで読んでいたのだが、近頃は信仰心が眩しすぎて読み難いと感じるようになってきている。今回、本書を読んで、その感じはさらに強まった。
 ただそれでも著者の真摯さには感動するし、自分もできるだけ見習いたいと思う。著者のものの見方、考え方にも学ぶことは多い。信仰、それから日本観や歴史認識などについては必ずしも賛成できることばかりではないものの、それでもその人格は尊敬したい方である。