基礎からよく分かる「近思録」―朱子学のすてきな入門書_

*背伸びした読書
 先日、『近思録』を読み返してみたので、特に共感できた箇所について感想を書きたいと思う。
 ちなみに、『近思録』について、Wikipediaにはこうある。
 『近思録』(きんしろく)は、朱熹と呂祖謙が周濂渓、張横渠、程明道、程伊川の著作から編纂した、1176年に刊行された朱子学の入門書である。4人は北宋時代の学者で、宋学を始めた人物とされる。内容は、14章に分かれている。

日本では江戸時代後期に各地の儒学塾で講義された。豊後日田の広瀬淡窓の咸宜園では、『伝習録』とともに学業の最後の段階に位置づけられていた。

 四書五経も知らず学問のない自分には、本書は難しいのではあるが、己の未熟さを知るには、たまにはこういう背伸びした読書もいいものである。

*至誠と方便
ある人が、こう言いました。「仏教で地獄の話をするのは、すべて性根の腐った連中を改心させるためです。地獄の話で相手を恐れさせて、相手に善を行わせるのです」と。それに対して先生は、こう言いました。「天地をつらぬくほどの至誠をもってしても、なかなか改心しない人がいるというのに、ウソの教えなんかで、どうして人を改心させることができるでしょうか」と。

(第十三巻 四)
 これは本書を再読するたびに感動する箇所である。策は弄せず、ただ至誠あるのみと聞くと、体の中に勇気がみなぎってくるようで気持ちがいい。


*酔っぱらい
まだ道について分かっていない人は、酔っぱらいのようです。人は、酔っぱらったときには、どんなことでもしますが、酔いがさめたときには、(そのあまりの愚かさに)それを恥ずかしく思います。

(第十二巻 二十九)
 自分は理性を見失うほど酔っぱらったことはないが、道に外れたことをしたときの恥ずかしさは分からなくもない。喜怒哀楽などの感情は時が経つにつれて薄らぎ、忘れてしまうものだが、この恥ずかしさは月日が経っても薄らぐことはなく、いつまでも鮮明な記憶が残るのでやっかいである。


*情に棹させば流される
人がまちがう場合、その人の属する人間類型の種類に応じてまちがいます。君子はいつも人情に厚いことによって失敗し、小人はいつも人情に薄いことによって失敗します。

(第十二巻 十七)
 自分は君子ではないが、情に流されて間違うことはよくある。いや情に流されるというよりも、空気に流されているといった方がいいかもしれない。この種の間違いは、いくら反省しても繰り返してしまうのだからどうしようもない。
 情にも、空気にも流されず、「ダメなものはダメ!」とはっきり言えるようになりたいものだ。90年前後に、『「No」と言える日本』(盛田昭夫、石原慎太郎)という本が流行ったものだったが、ひさしぶりに読み返してみるのもいいかもしれぬ。


*善行と幸福
日に日に徳行や善行を積んでいれば、日に日に幸福が高まっていきます。

(第十二巻 二)
 そういえば、幸福感に包まれている人は、日々、善行を積んでおり、不平不満ばかり言う人は、世のため人のためになるようなことはしていない場合が多いように思える。
 幸福かどうかは、自己が善行に励んでいるかどうかで決まるのだとすれば、前途洋々な心持ちがする。


*恩と義
家にいるとき、家族の間においては、たいてい情が礼に勝ち、恩が義をだいなしにします。

(第六巻 六)
 これは耳に痛い言葉だ。恥ずかしながら、自分は家族に対しては、感情的に振る舞い、礼儀を忘れがちだ。恩人に対しては、その恩人が間違ったことをしていたとしても諌めることは難しい。
 理屈としては、恩人が間違ったことをしていたら、諫言することこそが恩返しになると分かってはいても、なかなかそれを実行できない。まさに「義を見て為ざるは勇なきなり」という状態である。恥ずかしい限りである。


*進歩と疑問
これまで疑問にも思わなかったことに対して疑問をもつようになれば、そのとき、学問は進歩しています。

(第三巻 七十五)
 これはよくわかる。とある宗教を信じていた頃の自分は、疑問を持つことは迷いであり、退転であると思い込んでいたが、実際はここでいうように、疑問は進歩の証である場合が多いのだ。
 疑問を抑圧するのが苦しいのは、成長を無理に止めようとすることであり、精神的な纏足だからなのだろう。


*嘘をつかせる人
他人を自分の考えに従わせようとするのは、その他人をいつわらせることです。

(第二巻 八十九)
 かつて自分は、とある宗教の信者になり、「この宗教は真実だ。みな、この宗教を信じなければならない」と思い込んでいた時期があった。つまりここでいう「他人をいつわらせる」人だったわけだ。
 でも今は幸いにして、無宗教に戻り、特定の宗教を他人に強要する気はなくなり、やすらかに過ごせている。結局のところ、宗教の押し付けを止めることは、他人の心だけでなく、自己の心の平安にも通じるということなのだろう。


*重複
 ブログ検索をしてみたら、『近思録』について、自分は既にいくつかの記事を書いていた。


 これら四つの記事のうち、三つまでが、今回の記事でも論点になっているのは我ながらおかしい(笑)。自分の興味関心は、さまざまに移り変わってきていると思っていたが、実際のところは昔も今もそれほど大きくは変わっていないのかもしれぬ。
 ブログを書いていると、こういう気付きがあるから愉快である。