*初期
st問題に関連したコメントを整理してみました。
まずは、st氏が当ブログに来訪し始めた頃のコメントから。
*例一
以下は、「★カルト体験 (新興宗教を信じたら、心の冷たい人間になってしまったという話)」でのやりとりです。
以下は、「★カルト体験 (新興宗教を信じたら、心の冷たい人間になってしまったという話)」でのやりとりです。
1. st5402jp2018年08月03日 11:56
この体験とご意見は敷衍するべきだろうと思いますが、転載させていただいてはいけないでしょうか。ブログ記事設定で転載可としていただくとうれしいのですが。
2. 楽山 (自由)2018年08月03日 20:26
転載OKです。転載可にしときました!
3. st5402jp2018年08月05日 03:10
自由さん
転載させていただきました。感謝いたします。拝。
4. 楽山 (自由)2018年08月05日 14:57
確認してきました。拙文を転載してくださり、こちらこそ感謝してます。ありがとうございます!
1. st5402jp2018年08月18日 16:55
記事本文とリンク先を読ませていただきました。分析力に感心します。全部把握しているかと言えば分からないけど、読みごたえはありました。私は、信仰者でもあり、また性格的にも、かっとしやすいところがあって、反省しない人にならないように気を付けたいと思います。ありがとうございます。拝。
2. 楽山 (自由)2018年08月19日 06:37
コメントありがとうございます。
前によく議論していた某団体の信者らに対して、この種のこまごました記事を書くと、「屁理屈言うな」「もっともらしいことを言っても騙されないぞ」「粘着するな」と酷評されることが多かったので、褒めてもらえるとうれしいです。
私もけっこう短気なので、そこは注意したいと思います。
1. st5402jp2018年08月31日 04:37
一応キリスト者のつもりの私より、自由様は、立派な教理と解釈の説明をなさっておられるのに感心します。
加えて、ということになりますが、アブラハムが息子イサクを神への生贄とするために殺すという行為が、たとえ神の正しい命令であったとしても、人間がそれで、はい、理解しました、と言ってしまうのはおかしいという考え方を私はしています。聖書を読んでいると、正直言って、神の正しさを、いつも人間が理解できるとは思えないのです。だから、ここは保留するべきという主張になりました。
2. st5402jp2018年08月31日 04:43
アブラハムが、間違いを犯さない完全な義人ということになると、息子を殺すことも正しい、ということになりますが、神は殺そうとしたのを止めたわけですから、そのときの神の気持ちは軽々に分かると言ってはいけないならば、人間である自分が分かってないんだということで保留にするしかないのです。カルトは、誰にでも偉そうに語ろうとして、分かったことにしないと気が済まないようです。
3. 楽山 (自由)2018年09月01日 07:00
コメントありがとうございます。
でもこの記事は、みなさんの議論を読んだ後に書いたもので、もろに、後出しじゃんけんになってます。ですから、もしこの記事によいところがあったなら、それはみなさんの議論が良かったというですよ。
4. 楽山 (自由)2018年09月01日 07:01
おっしゃる通り、あちらの方は、分からないと言うことに抵抗があるみたいですね。
私が、とあるクリスチャンから「聖書は四十年、勉強してきたけど、まだ全然分からない」という話を聞いたというのに対して、そんなことは極々、内輪の話ならまだしも、外部には言わないものだ、分からないものを人に勧めることはできないから、それを言ったら伝道できなくなる云々と批判されてたと思うので。
5. st5402jp2018年09月02日 03:49
自由さん
>内輪の話ならまだしも、外部には言わないものだ
>分からないものを人に勧めることはできない
正直でないなら真実でもないし、何だか、企業戦略の話みたいで、おかしいですよね。
6. 楽山 (自由)2018年09月02日 08:38
そこはすごく違和感ありましたね。どうも、分からないということに対して、自分とはちがう受け止め方をしてることは確かっぽい。
ちなみに自分の受け止め方はこんな感じですね。
「聖書は分からない ⇒ 聖書はとても奥深くて、そう簡単に『分かった』なんて言えない」
「神の心は分からない ⇒ 神は偉大であり、はかり知れない存在である。どのような賢者であっても、その心を忖度することさえかなわない」
「宗教的体験から、聖書の一節、神の心の一端を『分かった』と実感することはありえるし、これは尊いことではあるが、聖書全体、神のすべてを『分かった』とするのは危ない…」
7. st5402jp2018年09月03日 03:06
自由さん
ほぼ同意します。
聖書の一説については、あるとき分かったということはありますが、一生を通じて正しいか、神の前に正しいかは、やはり分からない。私の知っている世界と人生は、そのごく一部だ、という弁えを敬虔と呼んでいます。しかし、そのときの気持ちとして、大事にはします。
8. st5402jp2018年09月03日 03:08
大事にしているから、まあ、記事に書いたりもします。後日、間違いに気づいたり、それ以上に大事な理解が与えられたら、修正するのが成長だと思っています。
9. 楽山 (自由)2018年09月04日 19:19
stさんのコメントを読んで、なんとなしに、仏教の筏の譬えを思い出しました。
ある男は、川を渡れずに難儀していたが、筏を使うことで無事に向こう岸につくことができた。
でも、このときに、いくら筏が役に立ったからといって、この後もずっと担いでいこうとするのはおかしなことであって、川を渡り終えた後は、筏はその場に置いてゆくべきであるという話。
これは、仏法(筏)にさえも、執着してはいけないということらしい。
分かったという気付きについても、これと同じことが言えるかもしれないと思います。