*つづき
 前記事のつづきです。
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> 自由さん

書いたことは、6年前に批判を始めてから、今までの積み重ねですから、厳しいと言われるくらい言っておかないと、柔和でありたいと思っている求道者や信仰者が、ふら~っと、言いくるめられることを恐れています。

実際、最初から厳しかったわけではないが、はぐらかし、ごまかし、侮辱、などを経て、何を言ってるんだ、何を言ってるんだ、の繰り返しで、呆れ果てた末に厳しくなってきたのです。

基本的に、彼が言ったことを、謝罪であっても、そのまま信用するということはできません。
2018/10/1(月) 午後 7:05st5402jp



自由さんは、自由さんのやり方があるんだろうと思いますけど、
私としては、今まで、社交の慇懃な謝罪はあっても、それで済ませて、何の改善もない人でしたし、深い意味など分かっていなかったし、本気で弱みを一度も見せたことがないのですから、私としては、妥協点は、諦めてます。
2018/10/1(月) 午後 7:10st5402jp



つまり、シャローム氏が書けば必ず全部を批判すると決めたわけではないが、実際は、大方、彼の記事やコメントを見るたびに、また、何を言ってるんだ、ということになり、批判を書くことになっているということです。
2018/10/1(月) 午後 7:16st5402jp



キレ気味の謝罪、社交の謝罪、など、謝罪にも嘘は入りやすいので、安易に分かりました、ではなく、その後の様子を見なければいけないと思っています。
2018/10/1(月) 午後 7:19st5402jp



内緒コメントでも入ってますか。
2018/10/1(月) 午後 7:20st5402jp



>stさん

なるほど。これまでの経緯があるわけですね。
こちらとしては、shalomさんが何か書くたびに批判されているようなので、ちょっと気の毒に感じてしまった次第でした。
過去のことは知らず、今現在の状況だけを見ての感想なので、ちょっと弱いですね。
2018/10/1(月) 午後 8:06[ 楽山 (自由) ]



内緒コメというのは、shalomさんのこと?
shalomさんとの内緒のやり取りはないですよ。
2018/10/1(月) 午後 8:11[ 楽山 (自由) ]



>キレ気味の謝罪、社交の謝罪、など、謝罪にも嘘は入りやすいので、安易に分かりました、ではなく、その後の様子を見なければいけないと思っています。


これは分かるなあ。とりあえず、その場を収めるための謝罪は、わりとよくあると思うので。
2018/10/1(月) 午後 8:12[ 楽山 (自由) ]



> 自由さん

私も長い信仰の模索の中で、自由主義神学というような事柄にいくらか関心を持ったことはありましたが、やはり生きている現実の中で、自分の問題に葛藤したり、人の問題や悩み苦しみに触れたりしながら、聖書を読みながら、また本を読んだり、いろんな人のメッセージを聴きながら、追求し、感じていることを書いただけです。自由さんもいろんな道を模索してこられたようですね。
2018/10/1(月) 午後 8:24[ shalom ]



> 自由さん

人や事柄によっては逃げるが勝ち!(笑)ということもありますしね。謝罪だけではなく、批判にも結構嘘が混入してしまいますね。気づきにくいことですが、いろんな防衛機制なども嘘といえば言えるかもしれませんから。
2018/10/1(月) 午後 8:41[ shalom ]



> shalomさん

わざわざコメントありがとうございます。
でも、これはちょっとまずいかも。
しれっと軽口と批判が混じってる感じがするし、stさんはそういうところに批判的なのかも…。
2018/10/1(月) 午後 9:10[ 楽山 (自由) ]



> shalomさん

>逃げるが勝ち!(笑)

自由さんの仰るとおり、私の予想通り、
シャロームのペテン師ぶり、バカ野郎です。永遠に信頼しない。
シャロームは、何も指摘できていないだろう、
2018/10/1(月) 午後 9:32st5402jp



シャロームの性根を示す、いい記事になります。
2018/10/1(月) 午後 9:38st5402jp



シャロームは、やはり、負けを認めるのが、いちばん嫌なようですね。
私は、もとより、勝ちなど求めていないのに。残念です。
2018/10/1(月) 午後 10:59st5402jp



> st5402jpさん おはようございます

「負けを認めるのが、いちばん嫌なようですね」

そうだとおもいます。勝ち負けなんて大嫌いなのですが・・・、
だからいい意味で「人は人、自分は自分」でありたいなと思うのです。人に依存したり、支配しようとしている限り、できませんので、そういう生ける神さまの愛と赦しによる交わり、支えによって自立した自分にしてくださる方がイエスさまなのですが、福音書ではイエスさまと出会った人はどんな人でもそのような自分を回復していますよね。イエスさまの隣の十字架につけられた人も!
2018/10/2(火) 午前 6:58[ shalom ]



でもやはり間違った意味で自分は自分、人は人と思ってしまう自分もあるのですね。イエスさまの十字架の隣のもう一人の人のように。イエスさまは私と一緒に負けようと十字架の上から招いておられるようです…そうすれば私と一緒によみがえりの命に生きることができますよ・・・と。

【口語訳】ロマ
6:3 それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。
6:4 すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。
6:5 もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。

「あなたの御言葉がこの身になりますように」と祈ったマリアの祈りを自分の祈りにしたいです。
2018/10/2(火) 午前 6:59[ shalom ]



> shalomさん

「負けを認めるのが、いちばん嫌なようですね」

>そうだとおもいます。勝ち負けなんて大嫌いなのですが・・・、

負けが嫌い、ということを、勝ち負けが嫌い、ということにすり替える詭弁です。

>だからいい意味で「人は人、自分は自分」でありたいなと思うのです。

いい意味で、を付ければ、いい意味になる、という安い詭弁。

すでに、悪い意味を露骨に振りまいた後ですから、もう無駄なのに。
2018/10/2(火) 午前 8:25st5402jp



人に依存したり、支配しようとしている限り、できませんので、そういう生ける神さまの愛と赦しによる交わり、支えによって自立した自分にしてくださる方がイエスさまなのですが、福音書ではイエスさまと出会った人はどんな人でもそのような自分を回復していますよね。イエスさまの隣の十字架につけられた人も!

人は人、自分は自分、とシャロームが言うとき、それが自分勝手の自己中心であることが既に指摘されているのに、シャロームは、依存したくない自立、ということに、また、すり替える詭弁です。

しかも、それをさせてくれるのが、キリストだ、というテーマのすり替えと背教。ひどいものです。
2018/10/2(火) 午前 8:25st5402jp



そして、さらに、キリストに出会った人も、十字架についた犯罪人も、自分を回復しているから、自分も回復するという詭弁。

何故なら、キリストに出会った人は神の前に低さを知っていたし、十字架上の犯罪人は悔い改めの告白をしたのです。シャロームは、なにも悔い改めていません。自己正当化だけをしようとしています。ぼろぼろの背教です。

>でもやはり間違った意味で自分は自分、人は人と思ってしまう自分もあるのですね。

これは何を言いたいのでしょう。罪を認めているのでしょうか。一般論を言っているのでしょうか。罪を認めているのなら、はっきりと悔い改めを言うのがキリスト者ですが。
2018/10/2(火) 午前 8:26st5402jp


イエスさまの十字架の隣のもう一人の人のように。イエスさまは私と一緒に負けようと十字架の上から招いておられるようです…そうすれば私と一緒によみがえりの命に生きることができますよ・・・と。

悔い改めをしないまま、甦りの命に生きることはできません。当たり前のことです。キリストが招いても、自己正当化に必死で、悔い改めをしない者は、救いを拒んでいるのですから。

その点が、シャロームと、十字架上の犯罪人とは、決定的に違うのです。にもかかわらず、このように、成り立たない言い訳を未練がましく書いている、シャロームは、キリスト者ではない、と、はっきり言えるでしょう。
2018/10/2(火) 午前 8:26st5402jp



>(聖句)バプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである

バプテスマを受けた人は、悔い改めの姿勢を持っています。シャロームは違う。

>(聖句)
その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。

だから、キリストとともに葬られて新しい命に生きるのは、悔い改めて赦された人です。

罪を認めず、言い訳を重ねるという偽善に走る者は、自分信仰者として、一人で死に、一人で黄泉に落ちてゆくしかない、ということなのです。どんどん、シャロームは、罪に罪を、偽善に偽善を、今このコメント欄で、重ねています。同情の余地もなく醜い。
2018/10/2(火) 午前 8:27st5402jp



>(聖句)
わたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。

だから、同じ理由で、
シャロームは、キリストと結びつくことなく、この地上で、よく言われるように、肉体が死ねば、無になるか、死の有り様だけになるか、知らない国へ行くのでしょう。少なくとも、復活は、悔い改めるキリスト者のものなのです。

露骨に醜いシャロームです。
2018/10/2(火) 午前 8:27st5402jp



キリスト者は、求道者も、決して、この人のようにならないでください。

そして、キリスト者も求道者も、世の中には、こういう人が、こうなってしまう人が、実際にいるのだ、ということを認識してください。

シャロームが、負けを認めず、勝ちを欲しがって、罪を赦されたものと見なし、罪悪感を自覚しないまま、自己中心の自分信仰となり、尊大となり、傲慢となり、悔い改めをせずに救われる、という、妄想へと壊れてゆく様を、目の前で見ている気がします。恐ろしいです。

シャロームの真黒なハラワタを見せつけられている気持ちです。気分悪いです。見苦しすぎるから、傍で見ていても、キリスト者として恥ずかしすぎるから、もう何も言わないでほしい、何も書かないでほしいです。

シャロームは、悔い改めないなら、黙っていなさい。
2018/10/2(火) 午前 8:27st5402jp



キリスト信仰は、正直に悔い改める、という、実に、優しく易しく単純素朴は理路を持っています。だから、キリストの荷は負いやすいのです。

しかしながら、それを、信仰の初期から弁えず、奇跡に慢心し、福音伝道者気取りの言説を広めようとしてきた者が、今、どうしようもなく、馬脚をあらわしているのです。
2018/10/2(火) 午前 8:44st5402jp