*つづき
 前記事のつづきです。次が最後です。
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おはようございます。
stさんはこちらの方で、本欄でのやりとりを記事にまとめておられますね。

・「嘘と詭弁」
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/19903083.html
・「嘘と詭弁(2)」
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/19904388.html
2018/10/3(水) 午前 6:48[ 楽山 (自由) ]



>自由さんは、自由さんのやり方があるんだろうと思いますけど、
>2018/10/1(月) 午後 7:10

一昨日、書こうと思いつつ、うっかり忘れてしまってたけど、
私には私のやり方があることを分かってもらえるというのは有り難いです。

思い返してみれば、stさんは、他者批判したくない人にまで批判するようにとは言わないとか、相手のやり方を尊重することをちょいちょい書いてましたね。
2018/10/3(水) 午前 6:54[ 楽山 (自由) ]



この議論はとりあえずは一段落したようにも思えるので、以下は、余談として書いてみます。

昨日は他所で、某教団の教祖の長男が発表した動画が話題になってました。
どうやら本人の気持ちとしては、宗教にはもうこりごりであって、教祖(父親)とは決別し、信者にもアンチにもかかわらず、自分の仕事(映画?)に専念したいとのことらしい。

・宏洋の人生ゼンツッパ!! ※炎上注意!!※宏洋は幸福の科学と決別したのか
https://www.youtube.com/watch?v=pF1r0EpljJc
2018/10/3(水) 午前 7:00[ 楽山 (自由) ]



これに対して、アンチ側の感想はおよそ二つに分かれてたようです。

・親の影響から脱して自分の人生を生きようとすることを応援する声。
・元教団幹部としての責任を追及する声。

今のところは前者が大勢で、後者は少数のようではあるけれども、この背景には、宏洋さんのことを二世信者問題としてとらえるか、元幹部(教団の内情を知る者)の脱会問題としてとらえるかがあるっぽい。
2018/10/3(水) 午前 7:05[ 楽山 (自由) ]



ちなみに自分は、これに対して、shalomさんの指摘とからめて考えてました。
「人は人、自分は自分」には、いい意味と、間違った意味とがあるというやつ。


>だからいい意味で「人は人、自分は自分」でありたいなと思うのです。
>2018/10/2(火) 午前 6:58

>でもやはり間違った意味で自分は自分、人は人と思ってしまう自分もあるのですね。
>2018/10/2(火) 午前 6:59
2018/10/3(水) 午前 7:05[ 楽山 (自由) ]



思うに、
宏洋さんが、某教団の信者ともアンチとも関わらず、自分のことをしたいというのは、二世信者問題としてはいい意味での「人は人、自分は自分」になり得るけども、だからといって元幹部として責任を放擲するなら微妙かもしれません。

末端の信者であっても、被害者的側面と加害者的側面があってややこしいものがあるけれども、教祖の長男で元幹部ともなれば本当に大変そうです。
2018/10/3(水) 午前 7:07[ 楽山 (自由) ]



以上、余談でした。

この件は、stさん、shalomさんにはさほど興味はない話題だろうと思うので、スルーで大丈夫です。

では、また。
2018/10/3(水) 午前 7:10[ 楽山 (自由) ]



> 自由さん

Vのさいご、さんしゃいん・・、とか、なにかさけんでた、なんかおかしかったですけど、・・。
人間は、心の中で自分を怒る者を固定して保つことはできないと思う。クリスチャンだから、神の意志を知るか、私は、知らないと思うし、知りえないと思う。新約だけだと感情に流されると何かに書いてあったけど、人間の行動は情緒や情感など、感情が支えていると思う。神のしもべなら、人間性を離れる、というのは、真っ赤な嘘だと思うから嫌いだ。人間性の良い部分、あえて言うなら良心を促進して、人間を人間らしく成長させ、人間らしく保つためにこそ、信仰はあると思う。神に対して、人間の不完全性、つまり罪深さを自覚しない方向のキリスト教は偽物だと思っています。今のところ、以上。
これから、彼のSNSのほうを見てみるつもりです。
2018/10/3(水) 午後 1:35st5402jp



怒る者(誤)→生かすもの(正)
2018/10/3(水) 午後 1:36st5402jp



> 自由さん

台風24号はあちこちに災害の爪痕を残して去り、さわやかな秋晴れの日を残してくれました。でもまじかに25号が近づいています。多くの被災地では生活再建のめども立てられず、寒い季節も近づくなか秋の実りの収穫が心配されています。
人間万事塞翁が馬という言葉もありますが、やはり良きと思えることも、悪しきと思えることもすべてのことは人知を超えた生ける神の最善のみ心と全能の御手の支配のなかで生かされていることを信じることによって慰め、希望、勇気を与えられることはすべてにまさる神の恵みですね。
2018/10/3(水) 午後 4:23[ shalom ]



そのことを信じて生きることも、私たちにひとりひとりに与えられた自由であり、また自分の良かれと思う道を歩むのも、ひとりひとりに与えられた自由意思による選択、決断に任せられています。よく言われることですが、選ぶ自由は与えられていますがその結果を選ぶ自由はないのです。私たちにとって良い結果であれ、悪い結果であれ、その結果の中で、また新たな道を選び取って生きることが私たちの人生であり、今の位置、状況も自分が自由に選んだ道の結果だあることを受け容れない限り、自分の成長、成熟はむずかしいと思います。その道は狭く、決してたやすい道ではありません。
2018/10/3(水) 午後 4:30[ shalom ]



自分は自分、人は人ですが、私たちは人の中で、人とともに生きているのですから、自由にもいろんな制約がありますから、自分の思いのままに生きていけるわけでもありませんが、その制約も神の御手によって与えられたこととして、受け容れ、自分は自分であり、人は人だと思います。
イエスさまが十字架につけられたの悪意ある誰かのせいではなく、父なる神が供えられた道であり、イエスさま自ら選び取られた道であるとイエスさまご自身が弟子たちに話しておられます。
信仰は自分がどう思うかという道ではなく、生ける神のみことばに導かれて歩むことであるとくり返し、繰り返し、弟子たちに、(私たち)にイエスさまは話し、歩まれ、生きられたのです。その道がいのちの道であることを私たちに証しし、私たちが新たな命に生きるためにご自分の命を与えてくださったのです。
それが福音という言葉の意味です。
自由さん ありがとうございました。
またお会いしましょう。
2018/10/3(水) 午後 4:33[ shalom ]



> shalomさん

人間万事塞翁が馬という言葉もありますが、やはり良きと思えることも、悪しきと思えることもすべてのことは人知を超えた生ける神の最善のみ心と全能の御手の支配のなかで生かされていることを信じることによって慰め、希望、勇気を与えられることはすべてにまさる神の恵みですね。

「失礼しました」の後で白々しく「負けるが勝ち!(笑い)」と言ったのは、決して塞翁が馬ではなく、シャロームの選択なのです。
2018/10/3(水) 午後 6:34st5402jp



シャロームは、そのことを、神の御心と言い、それも神の支配の中で生かされること、そして、神の恵みだと言っています。何という背教でしょう。反省も悔い改めもなく、神のせいにしているのです。

人間性を捨ててしまうと、常識的な判断さえできなくなり、このようなことを平気で書いてくるのです。
2018/10/3(水) 午後 6:34st5402jp



そのことを信じて生きることも、私たちにひとりひとりに与えられた自由であり、また自分の良かれと思う道を歩むのも、ひとりひとりに与えられた自由意思による選択、決断に任せられています。

自らの不正を神のせいにして、どう信じて生きるというのでしょう。このシャロームの言い訳と言い逃れと無責任を決して忘れてはならないと思います。

よく言われることですが、選ぶ自由は与えられていますがその結果を選ぶ自由はないのです。

結果を受けてどうするかという問題を、結果を選べないという一般論で、反省も悔い改めもしないことを不可抗力のように偽っています。どこまで腐っているのでしょう。これが根腐れの詭弁なのです。
2018/10/3(水) 午後 6:35st5402jp



私たちにとって良い結果であれ、悪い結果であれ、その結果の中で、また新たな道を選び取って生きることが私たちの人生であり、今の位置、状況も自分が自由に選んだ道の結果だあることを受け容れない限り、自分の成長、成熟はむずかしいと思います。その道は狭く、決してたやすい道ではありません。

不正の結果に対し、またしても、一般論に変換する詭弁をもって、新しく進む、などと言っています。詭弁に次ぐ詭弁です。

言っておきますが、不正の結果を反省もせず、受け容れるならば、この地上は、悪がはびこるだけになるのです。シャロームは、自らの悪、罪、偽善を受け入れるといっているのです。詭弁臭と偽善臭にまみれた言い逃れです。もはや、病識のない妄想病と言われても仕方ないでしょう。
2018/10/3(水) 午後 6:35st5402jp



自分は自分、人は人ですが、私たちは人の中で、人とともに生きているのですから、自由にもいろんな制約がありますから、自分の思いのままに生きていけるわけでもありませんが、その制約も神の御手によって与えられたこととして、受け容れ、自分は自分であり、人は人だと思います。

神の与えた制約を無視して、シャロームは、偽善を働いたのです。

今に始まったことではありません。私が批判を続けてきた理由でもあります。根拠を示してもコメントが多いというだけで荒らしと侮辱して削除してきた男です。

シャロームの言っていることは、人は罪を反省し悔い改めるが、自分はこれからも罪なき者として振る舞うといっているのです。詭弁を弄して、開き直るシャロームを忘れないでください。決して、彼を受け入れることがあってはいけないと思います。
2018/10/3(水) 午後 6:35st5402jp



イエスさまが十字架につけられたの悪意ある誰かのせいではなく、父なる神が供えられた道であり、イエスさま自ら選び取られた道であるとイエスさまご自身が弟子たちに話しておられます。

とうとうキリストの十字架刑さえも、神が備えた道、すなわち正しいと言いだしました。悪意ある誰かはいなかったでしょうか。はいはいと言ってキリストは十字架についたでしょうか。キリストは敵であるパリサイ人たちを強く批判しなかったでしょうか。敵意と悪意によってキリストは十字架についたのです。でなければ十字架の意味はなく、ただのホラーになってしまいます。

詭弁の言い訳を詭弁でしているシャロームは、決してキリスト者ではありません。聖書を読んでいないのかと言いたい。すみませんが罵詈雑言を言います。馬鹿野郎。黙れ。
2018/10/3(水) 午後 6:36st5402jp



私の記事「批判(8)パリサイ人」
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/19825552.html より、
(以下引用。)

(マタイによる福音書、口語訳)
15:7
偽善者たちよ、イザヤがあなたがたについて、こういう適切な預言をしている、
15:8
『この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。
15:9
人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる』」。
(マタイ15:7-9、新約聖書)

(マタイによる福音書、口語訳)15:13
イエスは答えて言われた、「わたしの天の父がお植えにならなかったものは、みな抜き取られるであろう。
(マタイ15:13、新約聖書)
2018/10/3(水) 午後 6:36st5402jp



(マタイによる福音書、口語訳)22:15
そのときパリサイ人たちがきて、どうかしてイエスを言葉のわなにかけようと、相談をした。
(マタイ22:15、新約聖書)

(マタイによる福音書、口語訳)23:13
偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、天国を閉ざして人々をはいらせない。自分もはいらないし、はいろうとする人をはいらせもしない。
(マタイ23:13-15、新約聖書)

(マタイによる福音書、口語訳)23:25
偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。杯と皿との外側はきよめるが、内側は貪欲と放縦とで満ちている。 23:26盲目なパリサイ人よ。まず、杯の内側をきよめるがよい。そうすれば、外側も清くなるであろう。
(マタイ23:25、新約聖書)
2018/10/3(水) 午後 6:36st5402jp



シャロームは、現代のパリサイ人、神の御心だと言って、キリストを殺す者です。

信仰は自分がどう思うかという道ではなく、生ける神のみことばに導かれて歩むことであるとくり返し、繰り返し、弟子たちに、(私たち)にイエスさまは話し、歩まれ、生きられたのです。

その神の御言葉にも御心にも、繰り返し、繰り返し、背いているのが、シャロームです。
2018/10/3(水) 午後 6:37st5402jp



シャロームには、次の聖句が相応しいと思います。

(マタイによる福音書、口語訳)
7:15
にせ預言者を警戒せよ。彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲なおおかみである。
7:16
あなたがたは、その実によって彼らを見わけるであろう。茨からぶどうを、あざみからいちじくを集める者があろうか。
・・・
7:23そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。
(マタイ7:15-16,23、新約聖書)
2018/10/3(水) 午後 6:37st5402jp



その道がいのちの道であることを私たちに証しし、私たちが新たな命に生きるためにご自分の命を与えてくださったのです。
それが福音という言葉の意味です。

自分の罪と偽善を認めず、反省せず、悔い改めもせず、さらに、弁明にもならない言い逃れを重ねて、詭弁という偽善の罪を犯し、それを、いのちの道と呼んでいるシャロームは、書いてくる言葉が、すべて、反信仰となっています。もはや、滅びゆく者のしるしだけを表しています。

罪は、悔い改めの身によって赦されます。
嘘と詭弁の偽善によって赦されることはない。
2018/10/3(水) 午後 6:38st5402jp



> 自由さん

長くなってしまいました。すみません。

悔い改めの身によって(誤)→悔い改めのみによって(正)
2018/10/3(水) 午後 6:40st5402jp